●『建築家・坂本一成の世界』という本が届いた。この本をつくるために、編集の長島明夫さん、ブックデザインの服部一成さん、「House SA」と「宇土市立網津小学校」の写真を新たに撮ったqpさんたちが「散田の家」、「散田の共同住宅」「水無瀬の町屋」を見学した時に、ぼくも便乗させてもらって、これらの建築をみることが出来たのだった。
http://www1.lixil.co.jp/publish/book/detail/d_86480024.html
最初と最後に置かれたqpさんの撮り下ろし写真は、建築物を撮るというより、建築とそこで生活する人の関係(その気配や痕跡)を撮っている感じで、長島さんが、建築の写真を撮るプロというわけでないqpさんを抜擢したのはこういうことだったのかと納得した。
「散田の家」と「egota house B」についてぼくが書いた、この日記の文章の抜粋も本に掲載されています。
●本をパラパラ見ていて気付いたのだけど、「南湖の家」は茅ヶ崎市に、「坂田山附の家」は大磯町にあるというのだから、今住んでいるところからかなり近い。坂田山は、JR大磯駅のすぐ裏にある小っちゃい山のことだと思う。ぼくは大磯町にある高校に通っていたのだけど、そういえば高校生の時、戦前にあった「坂田山心中」という事件の話を聞いたことがあった。心中した女性の死体が盗まれたという猟奇事件が、なぜか美談へと転化してしまい、映画化もされてヒットし、以後、多くの男女が坂田山で心中した、と。以下は、坂本一成の建築とはまったく関係のない話。
(女性の死体が盗まれたことにより、警察は変質者の犯行とみて捜査したが、見つかった死体は特になにもされた形跡がなかったため、警察が「死体はきれいだった」と発表したのだけど、それがなぜか「女性は純潔だった」という意味にとられて報道され、清い関係のままの心中という行為が究極のプラトニック・ラブとして話題になり---心中した二人は、キリスト教の祈祷会で知り合った慶應の学生とお金持ちの娘で、まあ、そういうイメージもあって---『天国に結ぶ恋』というタイトルで映画化もされ、映画も主題歌もヒットし、それに影響された多くの男女が、心中するために坂田山に押し寄せてきた---ウィキペディアによると、事件のあった昭和7年から昭和10年までの間で、坂田山では200人もの男女の心中、あるいは心中未遂があった---という。)
(なんで、心中するためにわざわざ大磯みたいな辺鄙なところに行くのかと疑問だと思うけど、明治から昭和のはじめの大磯は、高級別荘地であり避暑地であった。伊藤博文大隈重信西園寺公望吉田茂などの別荘があって、ハイソサエティなイメージの場所だった。大磯は日本で最初に開かれた海水浴場でもある。坂田山からは海も見える。)
ウィキペディアの「坂田山」の項に衝撃の事実が書いてあった。いろいろデタラメでそれなのに影響力の大きい、昭和初期の新聞メディア。以下、引用する。
《元々の名前は「八郎山」だったが、1932年にここで発生した慶應義塾大学の男子学生と静岡県裾野の資産家令嬢との心中事件(坂田山心中事件)の第一報を報じた東京日日新聞の記者が、「詩情に欠ける山名」ということで、大磯駅近辺の小字名「坂田」を冠して、勝手に「坂田山」と命名した。この心中が後にセンセーションを巻き起こしたことで、「坂田山」の名前が定着することになった。》