●ふと思ったのだが、日本(語)の小説で『壁抜けの谷』(山下澄人)比較されるべきなのは『あっぷあっぷ』(福永信)なんじゃないだろうか。
昨日の日記で、年老いた男と若い女とが互いの夢を覗き合っているということを書いた時、それとすごく近いイメージの小説を読んだことがあるような気がしたのだけど、その時浮かんだイメージが誰の何という小説に含まれたものだったか思いだせなくて、それについては書かなかったのだけど、後で、あれは『あっぷあっぷ』のロロとルルリの関係だと気付いた。こちらは両方女性で、互いに対して互いを裏返した分身(影)のような関係なのだけど、『壁抜けの谷』では、年齢も性別も異なるというところが違う。この違いが大きく小説の表情に違いにつながっているのだと思う。
下のリンクはぼくが書いた福永信論のうちの一つ(もう一つは、『人はある日とつぜん小説家になる』という本に収録されています)。
https://note.mu/furuyatoshihiro/n/nf102bfa43cf8
山下澄人の特異な一人称のあり様を、二枚の袋(二重の境界面)による内包関係の反転という空間構造の変化から考えることができるのではないか。まず、袋Aが袋Bに内包されている状態から、袋Bが袋Aに内包されている状態へと空間が反転するというイメージを考える。下の図のようなイメージ。山下作品では、なぜかこの反転が至るところで起こっているのだ、と仮定する。ここで、袋がひっくり返ることで、それによって包まれている領域(空間)の配置が変わることに注意。限定的な内部と非限定的な外部とが入れ替わっている。二重化された宇宙の罐詰。






ここで、Bの内側の領域(領域1+2)を、一人称のわたし(ぼく)の領域、そしてそのうちのAの領域(領域1)を、「わたしによって記憶されたあなた(一人称の記述の対象)」と考える。この時、「わたしがあなたを思い出す(Bであるわたしが、Aであるあなたを記述する)」という行為を、下の、向かって左側の図と矢印とで示すことが出来る。これは、限定された領域から限定された領域への眼差しである。つまりこの行為は「わたしの内側」の閉じた(一人称の)行為である。
これを空間的に反転させると向かって右の図のようになる(反転後も、行為のベクトルは保存されているとする)。左も右も、領域2から領域1へ向かう大きさと方向をもった同一の運動(行為のベクトル)があることを示している。まず、この反転によって、Bの内包する領域内の出来事であった「思い出す」という行為がBの外側に押し出されてしまう。思い出す主体であったはずのBは、Aという主体によって記憶された対象という位置になっている。思い出しているのはAであって、しかも行為の行き先は、限定された領域から非限定の領域へと変わっている。行為のベクトルの意味が、「わたしBが(内的に)あなたAを思い出す」から、「わたしBの記憶を持っているあなたAが、(外的な)何かを見出す」に変わってしまう。
(ややこしいが、山下的な一人称の使用として考えると、これは、わたし=Bだったものが、わたし=Aへと「わたし」が移行する、ということを意味する。)
反転という操作を経た後、内的な「思い出す」という行為のベクトルは、外的な「見出す(見る)」に変換され、さらにその行為の主体と対象が変わってゆく。





さらに、下の、向かって左の図は、「記憶のなかのあなたA」がわたしBを見ているという眼差しを矢印であらわしたものだ。わたしが一人称で「あなたから見られている」と記述する、と同義だ。これもまた、限定された領域から限定された領域への眼差しで、Bによる閉じた内的行為である。だがこの行為も、反転という操作によってBの外に出る。そしてこの眼差しは、Aによる主体的な行為でさえなくなる。非限定的な領域にある何ものかからの、限定的な領域にあるAへの眼差しに変わる。「わたしBは記憶のなかの(内的な)あなたAから見られている」という出来事が、「わたしBを記憶しているあなたAが、(外的な)何ものかから見られている」に変化する。
勿論逆向きの変換もあり得る。「あなたが何かを見出す(外的)」ことが「わたしがあなたを思い出す(内的)」へと変換され、「あなたが何かから見られている(外的)」が「わたしがあなたから見られている(内的)」へと変換されることもあるだろう。





また、この反転により、わたしの外側にあった「世界」がわたしの内側に畳み込まれる(領域3が内側にくる)。これにより、わたし(AあるいはB)は、それまでと同じわたしではあり得なくなり、ふいに別人になってしまうかもしれないような存在になる。
つまり、同一のベクトル(このベクトルとは『壁抜けの谷』のなかでイナズマと呼ばれているものだと言える)が、空間構造の反転的変換によって、その「意味」や、「主体」、「行為の向かう対象」の位置を次々と変化させてゆく。ベクトルそのものに意味はなく、空間構造の変換そのものにも意味はないが、この世界に発生する様々なベクトルと、絶え間ない空間構造の変換の絡み合いから、様々な意味や感情や主体や対象が生まれては消えてゆく。二重化された袋(境界面)による領域の空間的な反転は、内部を外部化し、外部を内部化することで、「閉じること(内)と開くこと(外)の違い」の底を抜く。これが、山下澄人の小説で繰り返し起こっていること(の、少なくとも一つ)なのではないか、と。