●夕方、数百はいるだろうカラスが山へ戻ってゆく。直接山に戻るのではなく、山の周囲の空をしばらく旋回しながら、徐々に少しずつ戻ってゆく。その時、山の脇を通る道路の上を走る電線に、ずらーっとカラスが並んでとまっているという状態になる。その下を通ることがよくあるのだけど、いつも、いつ糞が落下してくるかわからないという恐怖とともに歩く。薄暗い時刻なのでよくは見えないのだけど、時々、上から落下してきたものが道路に当たるピシャッという音が聞こえて、恐怖を煽るのだった。
●『おとぎ話みたい』(山戸結希)をDVDで観た。この監督の映画にある「もっていかれる」感じというのは何なのだろうと思う。『5つ数えれば君の夢』と比べると、この映画はわりと紋切り型の話で、ああ、紋切り型のパターンを、それなりにうまく、生々しくなるようにやっているのだなあ、というくらいの感じで観ていたのだけど、あるところから、ふっと持って行かれて、納得させられてしまう。
紋切り型を丁寧に積み重ねていって、その先で、「やり過ぎ」の領域へと、ふっと跳躍するのだけど、おそらく、その時の「やり過ぎの壁」の越え方が見事なのではないかと思った。主人公の女の子が「私は先生のことが好きです」と告白した、その同じ一息でつづけて「先生も本当は私のことが好きですよね」「踊りを誉めてくれたのは女としてみているからでしょ」「先生といると体の別の使い方があるってことを意識する」「先生は私を忘れて生きていけるの」「先生が男の子だった頃からずっと知ってた」というところまで畳みかける。一つ壁を越えるところで、その跳躍の勢いで一気に二つ、三つの壁を雪崩うつように越えてしまって、ほとんど狂気近い、妄想の一人語りの領域に踏み込んでゆく。この、紋切り型の領域から妄想の一人語りの領域へ、エキセントリックな女の子から狂気の領域の存在へと踏み越えてゆく跳躍の仕掛け方がよいのだと思う。暗くてほとんど顔が見えない、先生の存在は腕の端が画面の端に映っているだけという、この場面の演出の大胆さがすばらしいのではないか。
で、紋切り型から妄想の領域への跳躍を準備しているというか、つないでいるのが、主人公のダンスに対する独自の考え方だろうと思う。ふつう、ピナ・バウシュローザスのようなコンテンポラリー系が好きな女の子が考えるであろうダンスに対するスタンスとはかなり違っている(実際、映画でも元ダンサーの先輩と言い争う)。ダンスは、女性であることやその身体を売り物にする本来的に卑しい行為、嫌らしい表現で、だからこそ、それだけではない尊い人間性が必要なのだ、という風に彼女は考えていて、だから、自分のダンスを最初に誉めてくれた「先生」が、嫌らしい部分まで含めて女性として全面的に受け入れてくれたはずだという短絡が生じる。
紋切り型の領域から狂気の領域にまですすんだ瞬間から、主人公にとって、実在する先生がどう思っているのか、どういう人であるのかは、もう関係がなくなっている。重要なのは、彼女の妄想がつくり出した妄想の「先生」を、彼女自身の心にどのくらい強く、どのくらい生き生きと刻みつけられるのかという問題になる。彼女は、彼女にとっての妄想の「先生」が、いつまでも自分にとって重要な人物でありつづけるようにと、妄想の一人語りの強度をどんどん高めてゆこうとする。言葉だけでは足りないので、踊りながら語りつづける。実在する先生は置いていかれている。
妄想の「先生」と言っても、それは彼女が勝手に、好きなように作り上げたものではない。それはいつの間にか心に住みつき、勝手に育ってしまったものだ。そして、それが強いものとして育つための材料(資源)は、実在する先生との関係のなかにあるだろう。だから妄想の「先生」も彼女にとって他者であろう。でも、それは彼女の外には存在しない他者だから、その存在の強さを保つために彼女は過剰に妄想を語り続けるだろう。