●すごく幸福な夢を見た。大抵、すごく幸福な夢を見て目覚めた時は寝過ごしている。幸福な夢が眠りを引き延ばすのか、眠りつづけることを要求する体が幸福な夢を見させるのか。ああ、寝過ごしたかなあと思っていても、幸福な夢の余韻が時計を確認することすら拒否している。
小さな家のなかに、いろいろな人がいて、飲み食いしながらただ喋っている。子供もいて、遊んだりしている。それだけの夢なのだけど。
オリヴェイラの『ブロンド少女は過激に美しく』をDVDで。百歳を超えて撮られたオリヴェイラの映画は何というか別格扱いで、面白いも面白くないもなくて、ただ、こういうものです、と差し出されたものを、おお、こういうものなのか、と、まるのまま受け止めるしかないだろう(「面白いも面白くないもない」というところが面白いわけだけど)。変な細部をみつけてことさら面白がることもないと思う。たとえば、回想場面に入っても現在時の場面の列車の音がずっと鳴っているとか、変と言えばすごく変だけど、大勢に影響無いといえば無い。変な所は、変だなあと思ってその変さを変さとして受け取ればいいと思う。いや、全体をものすごく精密に分析すれば、もしかするとすごいことが言えるのかもしれないけど、そこまでするならともかく、この作品について中途半端に「上手いことを言う」必要はないように思った。サイレント風の演出かなあ、くらいのことを言っておけばいいと思う。
(とはいえ、どうしても気になったのが、列車のなかでのレオノール・シルヴェイラの視線の動きがすごく変なこと。まるで、カメラの脇に台詞が書かれた紙があって、それをみながら台詞を喋っているような視線にも見える。この妙な視線のせいで、主演のカタリナ・ヴァレンシュタインの顔よりも、レオノール・シルヴェイラの顔の方が強く印象づけられてしまう。)
(カタリナ・ヴァレンシュタインは資産家の令嬢というより街の不良少女が似合う感じで、まあ、そのことに物語的な意味はあるのだけど、でも物語的な意味よりも、終始持続する「そぐわない座に座らされている」感の方が重要なのだろう。)
(あと、ルイス=ミゲル・シントラが詩を朗読しているカットから、ポーカーをやっている奥の部屋につなぐモンタージュがかっこよかった。)
●変と言えば、どう考えても現代では成り立たない話なのに、無理やりに設定を現代に変えている(お金の単位がユーロだったり、机の上にパソコンがあったりする)のも変だ。逆に言えば、お金の単位と机の上のパソコンにしか現代性がない。パソコンをどけてお金に関する台詞を変えるだけで19世紀が舞台といってもおかしくない映画になるのだから、予算の問題で現代にしたわけではないだろう。これも、この変さがこの映画なのだと受け止めればいいのだと思う。
●オチがすぐに分かってしまうと言うか、「店のスカーフが一枚なくなっている」みたいな話が出たところで、この映画の結末がどのようなものなのか分かってしまうのだけど(ご丁寧にもう一度、ポーカーのチップが無くなるという場面もある)、オリヴェイラはよく、ナレーションで先に説明して、その後に具体的な映像を示すということをやるのだけど(この映画のヒロインもそのようにして登場する)、それと同様に、早いうちから結末を察知させておいて、まったくその予想の通り終わらせてみせるということをやっているのかもしれない。主役の二人が宝石店に入ってゆくところで、おお、とうとうくるぞと思い、ヒロインが指輪をみているだけでちょっとドキドキすることになるわけで、ここでは、結末が予測できることによるサスペンスが成り立っていると言えるのかもしれない。
とはいえ、実際にはアンチ・サスペンスだと思うけど。通常は「伏線」と呼ばれるものを、伏線ではないものとして扱っているということではないか。