●『君の名は。』の興行収入が150億円を超え、8週連続して一位にもなったという記事をみたけど、ぼくは昨日、地元のシネコンで、観客数約六名というとてもさみしい状態で観た。混んでいるよりはいいけど、ちょっと人がいなさすぎた。そもそもシネコン全体に人がいなくてがらんとしている。従業員も、チケット売り場に一人、飲食物売り場に一人、もぎりに二人の四人しかいなくて、他にはロビーに客が三、四人いるだけだった。これが地方の映画館の現実で、厳しいなあと思った。
●『君の名は。』について多くの人が誤読していると思うのは、この物語が「運命の相手」という幻想を主題としているかのように読んでいるところだろう。しかしそれは、新海誠の過去作品にひっぱられた解釈で、この作品の構造とは異なるように思う。瀧と三葉とのつながりはあくまで偶発的なものであり、二人の関係がかかけがえのないものになるのは、入れ替わりによって、それぞれが相手の立場を経験し、また、互いの入れ替わりについての現状報告をし合うことを通してであるはずだ。
そもそもこの「入れ替わり」は、瀧や三葉の運命などとは関わりのない「世界の都合」、あるいは「世界の仕組み」だ。糸守町を災害から救うために古くから三葉の家系に代々受け継がれてきた不思議な力(システム)が、隕石の落下が近づくことで勝手に発動してしまっただけで、三葉や瀧はいわば「世界の仕組み」の操り人形にさせられているに過ぎない。
三葉の力(宮水の家に伝わる力)とは、予測不能な災害を事後的に回避するために未来の誰かとつながることで(それはいわば、レースの結果をみてから馬券を買い直すような能力だろう)、つまり、それが可能な未来の誰かであれば誰でもいいはずなのだ。だから二人は、運命の糸で結ばれていたのではなく、三葉が放った糸に、たまたま瀧がひっかかってしまったということになるはず。「世界の仕組み」は、三葉から多数の糸を未来へと伸ばしたはずで、その呼びかけに応えてしまったのが瀧だった。三葉と瀧との信頼関係は、たまたまつながったその後で築かれたものだし、その過程もこの作品にはちゃんと描かれている。物語のはじまりから二人の関係が特別なものであることが前提となっている『秒速5センチメートル』とはその点で大きく違っている。
(追記。確かに、瀧は三年前に既に「しるし」を受け取っているのだけど、そこを突っ込むと「輪廻の蛇」問題が浮上してしまう。)
(だがそもそも、二人に信頼関係が生まれなければ、瀧が無茶をしてまでも糸守町へと辿り着こうとはしないだろうから、この信頼関係まで含めて「世界の仕組み」によって仕組まれたものだともいえる。)
「世界の仕組み」の策略はまんまと成功し、信頼関係を結んだ瀧と三葉は協力して糸守町の壊滅が回避されるように行動する。『シュタインズゲート』的に解釈すれば、ここで糸守町が壊滅する世界線(「シュタゲ」での世界線という言葉の使い方は相対性理論からすると間違っているのだけど、それは置いておく)とは別の世界線へと移行したことになり、その世界線では糸守村は壊滅しない---三葉は死なない---のだから、瀧と三葉に入れ替わりが起こる必要がなくなる。だから、二人は記憶を無くすというだけでなく、入れ替わりが起こったという事実(入れ替わりが起こった世界)そのものを失うと言える。
(瀧は死者からのメッセージを受けていた---死者と入れ替わっていた---わけだから、死ななかった三葉は、厳密にはそれと同じ三葉ではなく、三葉の別の可能性であるはずだ。)
この作品では二人の感情がなにより優先される、セカイ系だ、というのはたんに間違いだと思う(ぼくはセカイ系を必ずしも否定はしないけど)。むしろ、二人は「世界の仕組み」に翻弄され、そのあげく、大切な二人の信頼関係まで無かったことにされてしまうというべきだと思う。二人の喪失感は、「運命の相手幻想」によるものではなく、過去そのもの、あるいは世界そのものを実際に失ってしまったことによる。
ラストにある二人の出会いは、喪失してしまった世界のかすかな残余であると同時に、世界のシステムから強いられたものとは別の、新しい関係性を可能にする、出会いのやり直しでもあると思う。
逆に言えば、二人の喪失感は「別の世界線」の存在を示しているとも言える。だから喪失感は、唯一無二の運命というより、むしろ別の可能性(別の世界線)の存在の表現であるはず(レトロフューチャー的な意味でも)。
(たとえば、瀧とバイト先の先輩がつき合うという可能性だってあったはずだし、三葉とテッシーがつき合う可能性だってあったという含みを、この作品はちゃんと表現しているように思う。様々な可能性は、つながったり、つながらなかったり、つなぎ換えが起ったりすると、婆さんも言っていた。)