●昨日観た『マイマイ新子』はたいへんにすばらしかったのだけど、ただ一つひっかかるというか、気になってしまうことがあって、それは、この物語が終わった後、おじいさんが亡くなって町へ引っ越して行った後の新子が、幸福でいられるとはどうしても思えないということだ。町へ引っ越して終わり、という方が物語の終わり方としてすっきりしているのはわかるけど、せめて小学校を卒業するまではきい子と一緒にいさせてあげてもいいのではないか。
物語の最後の方に明らかになるのだけど、野山を自在に駆け回っているようにみえて、実は新子はかなり鈍臭い。ひ弱そうにみえるきい子よりも足が遅いことが判明する。新子が自在に野山を駆け回っている姿には、新子自身の空想によるかなりの補正がかかっているとみるべきだろう。
空想癖があり、鈍臭くて、田舎もので、おそらく空気が読めず、独自の行動パターンで行動する。こういう子が、町の学校ですんなり受け入れられるとは思えない。いつも塞ぎ込んでいるような子になってしまわないかとても心配だ。
新子はおそらく、典型的なアニメ的人物(たとえばハイジ)のような、どんな環境でも明るく朗らかでいられるような強い人ではない。新子が明るくいられるのは、彼女のいる環境に多くを依存している。特に、おじいさんの存在が大きいはずだ。新子は、アニメのキャラのように朗らかなのではなく、普通の子供のように弱い。新子ときい子は、ハイジとクララのようにもみえるけど、新子がハイジでいられるのは彼女のいる環境のおかげで、実は二人とも内面は『想い出のマーニー』の主人公の杏奈に近いと思う。この作品がすばらしいのは、新子が外面的にはハイジのように動き回る(アニメとして生き生きした動きが描ける)が、同時に内面的には内向的で、弱いところがあることが重ね合わせるように示されているからだともいえる。というか逆で、杏奈のような人物でも、ハイジのように飛び回れる環境を舞台としてつくっているところがすばらしいというべきか。
(新子にとって防府の麦畑は、現実である以上に空想を描き込むためのとても広い舞台であり、彼女が、現実と拮抗し、現実の問題に負けないほどの充分な空想を繰り広げるためには、この「舞台」の力が必要であるはず。)
(タツヨシと殴り込みに行く行為は勇敢だけど、その勇敢さが発揮されるのは、あくまで環境=舞台があるからこそであり、町の教室の人間関係のなかでは、その勇敢さはむしろ裏目にでてしまうような気がする。)
●まあでも、そういう新子を、「彼女なら大丈夫だ」と信頼して、あえて町へと厳しく放り出すのが、この作品なのかもしれない。おじいさんが亡くなっても、立派そうな父と、のんびりした母がいるから大丈夫なのかもしれない。いやでも、その厳しさ必要なのかな、とも思う。
●ぼくはきっと、内向的、内省的な子供の出てくる話に弱いのだと思う。思春期以前の内向的な子供が、(他者というより、自己の鏡像のような、イマジナリ―フレンドのような)友人と出会うような話に触れると、冷静ではいられなくなるみたいなのだ。