●両国のART TRACE GALLERYに、「絵画の体験を考える」展(松浦寿夫、境澤邦泰、青山大輔、好地匠)を観に行き、ギャラリートークを聴いた。
http://www.kuniyasusakaizawa.com/kaiganotaiken
普通に良い絵が並んでいる、普通に良い展示だと思った。こう書くと、軽くみているように思えるかもしれないけど、普通に良い絵ばかりが並んでいる展示はとても稀なので、これはとても貴重なことなのだ。
ギャラリートークも、なあなあにならない緊張がありつつ、妙なガードのようなものがなく、皆が率直に喋っているような印象を受けた。さらに終盤では、質疑応答というより、登壇者と観客の垣根を越えて、普通に活発な会話が成り立っているという、これもまた稀有な状況になって、とてもよかったのではないかと思う。
ぼく自身、絵画というものに(特に西洋の近代絵画に)絶大な影響を受けて生きているわけだし、いつも絵画的体験というものについて考えてはいるのだけど、でも、今、「絵画」ということをあまり強く言うと、むしろ絵画的な体験を取り逃がしてしまいがちなのではないかという感じがあって、それは、絵画なんてもう終わっているということではなく、「絵画」という語にまとわりつく様々なコノテーションが枷になってしまうように感じているとか、「今、あえて絵画ということの反動(保守)性」みたいな感じが目立ってしまうように思うからで、そういうこともあって、とても面倒な質問をしてしまったのだけど、嫌な顔をせずに真摯に答えていただいてありがたかったです。
(絵画について考えるなら、「絵画」と強く言わない方がいいんじゃないかという、変にひねくれた感じがぼくにはある。)
良い絵が並んでいる良い展示だと認めた上で、そこで共有されている「普通に良い絵」という価値観を、暗黙のうちに前提としてもいいのだろうか、という疑問があって、これは、前提とすべきではない、と言いたいのではなく、ぼくも分からない(「別にいいんじゃねえの」という解もあり得る)、ということなのだけど。
●これはまた別の話だけど、井上実展とこの展示を観て、ぼくのなかで何か動くものがあった。これが、どのように育ってくれるのかは分からないけど。