(昨日からのつづき)
(3)映画では石田の家の事情がほやけている。石田は、学校では猿山のボスであり、西宮に対してはいじめる側にあって、優位な存在だが、彼の家は貧しい。石田の母は元ヤンキーであるように見え、彼女は、石田とその姉とを女手一つで育てている美容師である。姉は頻繁に付き合う男を替え、しばしば男を家に呼び込むが、そんな奔放な姉と彼とはカーテンによって仕切られているだけで、住居環境からも貧しさがうかがえる。一方、西宮の一家は高級そうなマンションに住んでいるし、妹は中学生なのに高価なカメラを買い与えられている。西宮もとても高価な補聴器を使用している(20万以上もする補聴器を8個も壊されるまで学校に文句を言ってこないとか、かなりお金に余裕があるからできることだと思う)。母親はインテリっぽい感じだ。
ここには、障がい者=弱者という紋切り型には収まらない社会関係の複雑さがあり、実際、石田の母と西宮の母との会談においては、西宮の母が圧倒的に優位だ。西宮の母は石田に向かって、母親とそっくりで下品な顔だと言う。
それ以上に重要なのは、石田が西宮をいじめている過程で、高価な補聴器を8個も壊してしまっていて、石田の母は苦しい家計にもかかわらず170万円もの大金をねん出し、(おそらくお金に困ってはいないと思われる)西宮の家へ弁償している。石田は自分の行為の愚かさを、まず最初に、この母へと強いた負担を通じて自覚する。
自分も、世界も、どちらも大嫌いになった石田が、それでもすぐに自殺することなく、高校生にまで成長できたのは、母に背負わせた170万という負債を返すことなく死ぬことはできないという思いだ。最低限、ここだけくらいは落とし前をつけておかないと、自分は最低過ぎる、と。バイトをして170万貯めるまでの間、石田の命は保留される。自分にも世界にも絶望し、世界と隔絶しながらも、それによってとりあえずは生き延びられたその時間が、後の展開を可能にする重要な意味をもつ。関係をやり直せるかもしれないチャンスを得る。だからこそ、石田の家の家庭環境、経済的な状況は、この物語の説得力においてとても重要であると思われる。しかし映画では、この二つの家の経済的な格差や、170万という額の大きさ(あるいは、170万という額に対する、二つの家の重さの違い)を、おそらく意図的に曖昧にしている感じがする(この部分に関しては、尺の短さの問題ではなく、意図的にそうしていると思われる)。
でも、こういうところがぼやけているので、石田という人物のキャラやその行動が不可解というか、つかみどころがなくなって、自分が嫌いとか、罪を悔いているとか、世界に絶望したとか言ってるけど、けっこうのうのうと生き延びてるじゃん、みたいな感じになってしまう。自分の部屋にあるあらゆるモノを売って、死ぬ前に西宮に会いにいくという決意の重さも伝わらない。
(4)担任の教師の最低さが具体的に描かれていない。映画版の担任教師は、たんに無能で嫌な奴でしかないが、原作の教師は、表面をなんとなく取り繕っている分、より一層許し難くクソみたいな奴だ。そして、この教師の存在が、クラスの空気を悪くし、石田や西宮をより一層追い詰めることに積極的に加担している。ある意味で、石田も西宮も、この教師の被害者であると言える部分がある。しかし、この教師のクソさ加減は(表面は取り繕われているので)、おそらく石田の親にも西宮の親にも校長にも認識されていない。この教師は、場を悪くする隠れた因子であり、悪くなっていく場にはこのような隠れた因子が存在し得るということを示している原作は優れている。映画が、この隠れた因子をちきんと提示しないのは、石田の「罪」を描くときにフェアではないように思う。
●以上の四つくらいの点で、映画版『聲の形』の問題呈示部分(小学生パート)は十分ではないと思う。
最近のアニメは物語の圧縮技術がどんどんすごくなってきて、『響け!ユーフォニアム』とか『君の名は。』とかが特にそうなのだけど、短い時間に多くのエピソードをギュッと凝縮して、しかも分かりにくくならない。その場合、あるエピソードなり出来事なりの連鎖(因果)の、どの部分を明示して、どの部分を省略する(そこは察してくれ、とする)のかという取捨選択が重要になる。『君の名は。』などでは、描かないこと(描き落とし)としてのブランクが積極的に意味をもち、主題とも深く絡んでくる(入れ替わりの一回目、どうやって町長を説得したのか、など、意図的にあけられた穴がいくつかあり、それが---多世界的---忘却という主題と絡む、とぼくは思う)。
しかし、『聲の形』の小学生パートは、まるごとが一つの精密機械として与えられているので、その構造が出来る限り正確にトレースされる必要があり、圧縮や余白による表現が、精密な構造を紋切り型化させてしまうように思われる。
(一昨日も書いたけど、ぼくはこの映画の表現はとても上品で良いと思うし、後半の展開は原作よりも優れていて、納得できるとも思っているので、その「前提」となるべき部分が充分ではないことを、とても惜しいと思う。)
(あと、『聲の形』にまさか荒川修作が出てくるとは思わなくて驚いたのは、よい驚きだった。)