●古い記憶。小学二年生くらいの頃だったと思う。ともだちと二人で学校から帰っている途中、なぜか「地球はどうやってできたのか」という話になった。ぼくは、科学図鑑などで知ったイメージに基づいて話し、ともだちはもっと神話的な話(神様が海の部分を青く塗って、陸を茶色で塗った、という話だったと思う)をした。そして、互いに相手の言うことにまったく納得できなくて、それは絶対おかしいだろ、という、けっこう強い言い合いになった。そしてこの伝わらない感じのもどかしさをずっと憶えている。
何に対して納得するのか、あるいは、納得を得るポイントは、人によってさまざまだ。ぼくは、そんな地球儀をつくるようなやり方で「この地球」ができるわけないじゃないか、それは比喩と現実とを混同している説明だ、と思ったのだし、おそらくともだちは、何かがつくられるためにはそれをつくる能動的作動主が必要で、能動者もいないのにガスが重力で自然に集まってくるなんてあり得ない、雪が自然にあつまって雪だるまができると言っているのと同じで、それでは原因を説明したことにはならない、ということだろうと思う。
(どちらの言い分も部分的に正しく、そしてどちらも充分ではない。)
(小学二年生の頃に、このように言語化できれば、もう少しは分かり合えたかもしれない。)
納得を得るポイントが違う人を説得することはできない。この「伝わらなさ」を感じたとき、この人と自分との納得を得るポイントの違いはどこにあるのか、を探ることになる。同時に、自分に何が足りないのかを考える。ものごとは常に相対的であり、どっちもどっちであるということ。