●「サイエンスゼロ」で科学の未解決問題の第一弾として「意識(心)」が取り上げられていたけど、特に目新しいトピックはなかった。
デカルト心身二元論ではなく、現代の科学者は物理的な一元論をとる、と。仮に、心は脳の機能により、脳で発生するとする。リベットの実験によって、「意思(右手を動かそう、など)」の発生よりもはやく、脳の補足運動野にその兆候があらわれることが分かった。つまり、意思の発生よりも早く、脳は既に結論を出している、と。さらに、へインズの実験では、補足運動野よりも先に、前頭皮質のBA10が活動していたことが分かった。しかも、BA10の活動パターンをみることで、人が、右手を動かそうとするのか、左手を動かそうとするのか、その人の意思が発生するよりも先(なんと7秒も前)に予測できた。また、シリグの実験では、頭頂葉への電気刺激により、人の意思決定を外部から操作することすら可能だと分かった、と。
ここで、意識の発生よりも補足運動野の活動の方が早かった、さらに、補足運動野よりBA10の方が早かった、となると、さらに、脳の別の部位が、またそれより先に別の理由が、また、それより前に外的要因が、と、無限に原因を辿ってゆくことになり、結局は、ビッグバンの時の量子ゆらぎの状態がすべてを決めたのだという話になって、ビッグバンの時からすべての人の心の状態が決まっていた、みたいな話になる。そもそも、物理学が決定論的で時間対称的な世界像をもっているのだから、心の発生を物理的な一元論で説明しようとすると、結論がそこに行き着くのは必然ではないか。
それに対して、統合情報理論が出てくる。単純な原因→結果という因果関係ではなく、脳のなかで発生するさまざまな情報のネットワークの、その「統合のされ方」によって、意識が生まれたり、生まれなかったりする、と考える。
(なぜか番組ではトノーニの名前が挙がっていないのだけど、トノーニの『意識はいつ生まれるのか』によれば、一方に、多様だが統合度の低いネットワークがあり、他方に、高い統合度をもってはいるが多様性の低いネットワークがあるとして、そのどちらでもなく、多様性も統合度も共に高いネットワークには「意識」が生じると考えられる、とされている。そのようなネットワークをトノーニは、ネットワークを構成する要素の「すべてが重要」であり、かつ「それぞれが異なった理由で重要」であるようなネットワークと表現している。)
統合情報理論が面白いのは、それを具体的な数式としてあらわしているところにある。つまり、この数式を使えば、人工的に意識をつくりだせる可能性があることになる。あるいは、意識の状態を外から計量可能になる。ここで話題は、原因の特定ではなく、意識をもった人工知能をつくりだせるのか、という方向にアプローチを変化させる。
(しかし疑問なのは、仮に、意識をもった人工知能ができたとすると、人はそれを停止させることができなくなる---それは「人を殺す」ことと同じになる---という問題をどう処理するのだろうか、という点だ。プログラムにあらかじめ寿命を仕込んでおくという手があるが、しかし、意識をもった人工知能が、人間に対して、我々には物理的に可能な限り生き続ける権利がある、人間が恣意的な寿命をあらかじめ設定するのは理不尽だ、と抗議してきた時、それに反駁できる論拠があるのだろうか。まあ、意識といっても、現状ではダンゴ虫やアリ程度のもので、殺しても別に大丈夫、ということなのだろうけど。)
とはいえ、因果ではなく、ネットワークと統合のあり様だ、と目先を変えたとしても、基本として、物理的な一元論であることは変わらず、なぜ、因果では出て来ないものが、ネットワークと統合によって出てくるのか、仮にネットワークと統合によって意識が出てくるとしたら、それでも物理的一元論が維持出来ていると言えるのか(実質的には心身二元論、あるいは汎心論になるのではないか)、という疑問が消えるわけではない。