●昨日もそうだったけど、夜空がすごく黒く澄んでいる。月のすぐ脇に金星があって、口元のほくろみたいだった(最近あまり写真が撮れないのは、暗くなってから散歩するようになったからだ)。今日もずっと(80年前後くらいの時期の)山下達郎を聴いていた。
●パースbot、面白い。
https://twitter.com/peirce_bot
《思考は意識の中にあるものとして想定されることが多い。しかし実際は、思考を直接意識することは不可能である。思考とはむしろ、文章がそれに従うのと同様に、意識が従うところのものである。それは、現実化され得るものが、実際に現実化されたときのあり方を決定する習慣の本性を持つものである。》
《「運動が物体の中にある」(motion is in a body)とは言わず、「物体が運動中である」(a body is in motion)と言うのと同様に、思考が私たちの中にあるのではなく、私たちの方が思考の中にあると言うべきである。》
《物事の存在には推論の過程に対応する何かがある。》
《人間が行う推測は、純粋にランダムな命題よりも少しだけ良い。》
《「このもの性」を「個体性」と呼ぶのは事態の片側面しか捉えていない。あたかも統一性と隔別性がその特徴であるかのよう言い方である。しかし「このもの性」の真の特徴は双対性であって、ペアのどちらか片方だけに注目した場合に「個体性」として現れるのである。》
上の、「個体性」は「双対性」の片側だけに注目した時にあらわれるものだという指摘がとても気になる。「このもの性」の真の特徴が「双対性」にあるというのは、感覚的にはとても腑に落ちる。もっと知りたいのだけど、これは何という本に書かれていることなのだろうか。
岩田慶治botは、同じ文章の繰り返しになってしまっていて、読んだことのあるものしかあらわれなくなった(botじゃなくて、ちゃんと本読めよ、ということだけど)。下の文は、「地にはスケールがない」ということを言っていると思う。ここで、地としての非人間や非学問が、地としての非自然や非世界より小さいということはないはず。
https://twitter.com/iwatakeiji_bot
《自然は非自然の上に浮かんでいる。世界は非世界の上に置かれている。人間は非人間のなかに生かされている。学問は非学問のなかにあって自らの観念の糸をつむいでいる。》