●『部分的つながり』(マリリン・ストラザーン)、面白い。地にはスケールがなく、パースペクティブのスケールに関わりなく図の情報量は一定、という話が、その具体例としてハラウェイの「フェミニズム」につながってゆく。以下、メモとして引用。
フェミニストはマスター・ナラティブを作らなくてもいいかもしれないし、グローバル・システムを理論化しなくてもいいかもしれない。だが彼女たちは、「地球規模のつながりのネットワーク、それもきわめて異なった、しかも権力差があるようコミュニティのあいだで、知を部分的に翻訳する能力を添えたネットワークを必要としている。》
《(…)フェミニズムにおいては、論争が対象すなわち関心の焦点をつくる。それは、多様な利害関心からつくりあげられるが、しかしそれらが〔同一のスケールで〕対立していたり調停されていたりする必要はない。個々人が貢献していると感じるであろう合意された知の母体(ボディ)が存在しない〔からである〕。フェミニズムの知は、人類学の知がそうであるようには、蓄積的な性質をもったものとは捉えられず、一般的な吟味に開かれた資料を生み出すこともない。》
《アン・ゲイムは「単数形のフェミニズム理論について語ることはできない。数々のフェミニズム諸理論があるからだ」といういまや十分に定着した見解を概説のなかで繰り返している。「多面戦線の同時展開」だけでなく、それらの戦線間で保持されている差異、すなわち「内部の多様な差異」が重要なのである。」》
《彼女たちを部分的な人格にするのは、これら無限に差異化可能なポジションである。そこには、フェミニストであるためには、他の誰かにもならなければならないという感覚がある。フェミニズムは、したがってアイデンティティの他の側面に対して「自らが作る差異」にこそある。「いかなるフェミニストの立ち位置も必然的に部分的である」。ステイシーがこれに応じて示唆するように、人は常に部分的にしかフェミニストではない。》
《いかなる単一の視点とも対応せず、「それ」がひとりの人格の(集合的な)声としては想像されえないからこそ、それが提供するポジションが一層際立つのである。「議論の多様性にもかかわらず、フェミニズムは男性権力への異議申し立てをとおして団結している」。とはいえ反対に、フェミニズムが個々の研究者の理解や把握を超えたところに確かに存在するともいえ、その多元主義は単一の参加者には包み込むことができない言説をつくりだしている。その範囲が広すぎるとか、複雑すぎて把握できないからではなく、外部の差異と内部の差異のつながり方のために、そうなのである。》
フェミニストの論争を特徴づける共在性(コンパティビリティ)は、そこに参与するということ以外には、参与者たちのあいだに比較可能性=等質性(コンパラビリティ)を要求しない。内部の差異あるいは外部の差異いずれにおいても、人々は異なるポジションのあいだを旅する。まるで不釣り合いが意図されたものでもあるかのようだ。》
フェミニズムは、その内部における、または外部に対する、様々な個別の論争のひとつの「まとまり」として存在していて、それは体系立った知の母体を蓄積するのでも、ある公式的な正義を構築するのでも、ある特定の立場を代表するのでもない。それは、内部に対しても、外部との関係に対しても、無限に異なる差異を受け入れるものとしてあるので、一人の研究者、あるいは参与者がそのすべてを包み込むことはできないし、また、誰でもが常に部分的にしかフェミニストでありえないのだから、誰もフェミニズムを代表することはできない(それはそもそも、何かを代表するということへの異議申し立てなのかもしれない)。それは一つの「場所」ではなく、様々なスケール、様々な領域で起こっている様々な論争のまとまりであり、《相容れないものをまとめる緊張》である、と。これが「地にはスケールがない」に対応する、フェミニズムという言説の状態とされる。
しかし、このような「いかにもポストモダニズムが称揚しそうな多元主義」は、あまりにとりとめがない。差異を無限に受け入れることなど、(一人の)人間には事実上不可能だろう。
《誰しも、自らが複数の参加者の集合体であるかのように内部の絶え間ない対話を繰り、順繰りに違う自分になることなどできない。》
利益集団の概念は、パースペクティブという考え方を非常につよく暗示している。推し進めているのはまさにパースペクティブそのものであり、世界を評価する起点となり、主張の基となる「視点」なのだから。利害=関心---係争中の具体的目標や抗議内容、生活状況であれ何であれ---が、活動家の視点を決定する。したがって、争われているのは、何を見ることができるのかについてであり、それがどのように見えているのかについてである。ハラウェイが注意を向ける問題は、しかし、見るべきものが多すぎるという現代的な感覚である。多様に異なるパースペクティブから構成された世界においては、ひとつのパースペクティブを主張することそのものが平板化につながってしまう。》
ポストモダン的な多元主義は(それ自身だけでは)立ちゆかないということが、今日の世界の大きな問題としてある。しかしかといって、自分の存在を素朴に一つの「視点(パースペクティブ)」に代表させることにも無理がある。そこでハラフェイ+ストラザーンは、出自もスケールも異なるもの同士(たとえば、有機体と機械、あるいは、人類学とフェミニズムなど)が、互いに相手を「自己を拡張するための道具」とみなして「部分的なつながり」をもつ「サイボーグ的な身体」というイメージを提示する。異質なもの同士の部分的なつながりによって生まれるパースペクティブ(「そこ」から「他方」をみるポジション)と、そのようなパースペクティブによって開かれる図(可能性の実現)がありうる、と。つまり、一方にとりとめのない多元的状態があり、他方に一つの集約された視点(身体とか、故郷みたいなもの)があるというのではなく、ある視点と別の視点のとの「部分的つながり」によって発生する拡張された視点---その視点自身が、予め別の視点を含んでいるような視点---が生じるのだ、と。
《(…)異なる声に気づくことは、別々の場所、別々の会話という、脱身体化が示すイメージ以上であり、また以下である。しかし、もしそれぞれの「側面」が、そこから他方を見るポジションを提供するのならば、身体化のアナロジーを使うことが、あるいはできるのかもしれない。》
《サイボーグは、異なる部分が作用するための諸原理が単一のシステムを形成しないため、身体でも機械でもない。各部分は互いに釣り合いがとれてもいないし不釣り合いでもない。(…)それはひとまとまりのイメージではあるが、全体のイメージではない。》
《ハラウェイの批判を突き動かすのは、フェミニストを含めて、人々が二分法を克服するために用いてきた一体性の概念である。人々は、分断された世界という考え方を、社会はコミュニティであるかもしれないし、労働は疎外されていないかのしれないという考え方で乗り越えようとしてきた。けれども、そのような全体性のヴィジョンは、壊そうとしているはずの基盤にある二元論をどうしても永続させてしまう。》
《「(…)フェミニズムが、有機的支配の論理と実践を避けるのならば、全体論有機体論に対抗しなければならない。〔…〕私が望むのは、サイボーグが、拮抗的対立、機能的制御、神秘的機能によってではなく、むしろ部分的なつながりによって差異を関連づけることである」(ハラウェイ)》
《サイボーグは、比較可能性=等質性を前提とせずにつながりを作ることができるのだとしたら、それがどういうものであるのか考えをめぐらせる。だとしたら、人類学とフェミニズムのあいだの関係を考えてみてはどうだろうか。一方が他方の可能性の実現ないし拡張なのだとしたら、その関係は同質でも包摂でもないだろう。その関係は、人と道具のように、人工装具的なものだろう。比較可能性=同質性なき共在可能性。つまり、一方が他方を拡張するが、それは相手のポジションからのみ行われる。拡張が生み出すのは異なる能力である。この見方では人と道具とのあいだに主客の関係はなく、拡張された、または実現された可能性だけがある。》
《(…)人類学者はフェミニズム言説を明確な外部の存在として、言うなれば身体の「外側」に位置づけることができる。なぜなら、フェミニズムは人類学の拡張であり、異なる素材から作られた手段であり、オリジナルな身体が単独ではできないことをしてみせるのだから。同時に、道具は何かに取り付けられている限りにおいて役立つことができる。道具は人が他者とやり取りするための手段だが、その人の使用と切り離されて包摂されたり所有されたりするものではない。》
《ちょうど道具が役立つように、私は会話を自分のために役立たせることができるし、会話を続けるために自分自身を役立たせることができる。》
《いずれの場合にも、何かの実現や拡張は、その何かが付着していたもの、それが由来していた場所と同じではない。ハラウェイは、サイボーグは自己更新はできるが自己再生産はできないという。ある部位は他の部位とは違う水準に属しており、他方を作り出すものによってでは一方は作り出せない。各部位は、お互いのスケールに組み込まれていない。》
●おそらく重要なのは、この「部分的なつながりによる視点(拡張)」は、発生した「部分的つながり」の数だけ無数にあり、しかもその繋がりは、途切れたり、取り外したりすることが可能で---そして自己再生産不可能で---また別のものと「部分的つながり(による別の視点)」をつくることができる、という点だろう。