●検索しても見つからなかったのでぼくの記憶違いという可能性もあるのだけど、確か、辰野登恵子が何かのインタビューで自分の作品についてフロイトのfort-da(糸巻き遊び)を例に出して説明しているのを読んだ記憶がある(ネットに見当たらないのは紙媒体だったのか?)。沢山遼山田正亮について「ミトニミックな交換」と書いているのを読んで思い出したのだけど、これは結局同じことだなあ、と。糸巻き遊びは在と不在とを象徴化して扱うことを可能にするための遊びだけど、絵画という平面上ではそれは(形態と色彩を用いた)換喩的なものになる。ある種の形式的な絵画に惹かれる人は、おそらくこの部分に強く惹かれるのだと思う。自分のことを振り返っても、そうだ。
ここに惹かれるというのは、ある「退行」に惹かれるということだと思う。世界が象徴として立ち上がった最初の瞬間への指向。絵を描くということは、何度も何度も、その都度そこへ戻ってゆくことではないか。糸巻き遊びは、「母親の不在」という絶対的な現実を、在と不在の象徴的な制御によって乗り越えようとするもので、それは「遊び(虚構)」を可能にする、最初の下地づくりだと言える。糸巻き遊びは、遊びを可能にするための、遊べるようになるためのレッスンとしての遊びではないか。
遊ぶことそのものを禁欲するようにして、遊びが可能である条件に何度も立ち返ること。アメリカ的なフォーマリズムを、そういうものとして考えることもできる気がする。で、それが必要だったのはやはり「戦争があった」からなのだろうか。それとも、もっと普遍的なものなのだろうか。