●お知らせ。「虚構世界はなぜ必要か?/SFアニメ「超」考察」の連載17回、「フィクションのなかの現実/『マイマイ新子と千年の魔法』『この世界の片隅に』(1)」が、けいそうビブリオフィルで公開されています。今回は主に「マイマイ新子と千年の魔法」について書いています。
http://keisobiblio.com/2017/03/22/furuya17/
書き出しの部分を引用します。

今回は、SFから少し離れたところからフィクションについて考えたいと思います。片渕須直監督による『この世界の片隅に』は、細部にわたって徹底的に資料を調べ、史実に忠実につくられていることが知られています。一つ例を挙げてみましょう。広島市の江波にある実家から呉市の上長ノ木にある周作の家へと嫁いだその日の夜、海を見下ろせる庭に出た主人公のすずが、夜の海を明るく照らすサーチライトの光を見てその美しさに魅了されるという場面があります。そしてその後、鎧戸を閉める時、海上に二隻の小さな船を見ます。ほとんど気づく人がいないくらいの短い描写ですが、この船について監督の片渕須直は、細馬宏通とのトークセッションで次のように語っています。
《あれは大阪汽船のこがね丸とに志き丸という船があって……》《それを海軍が徴用してて、あの日は呉鎮守府の司令長官が乗って大竹に行ってるんですよ。で、あれは司令長官、中将座乗の船なんですね》《(…) そのためにこがね丸の本を買うわけですよ(笑)。要するにあれは軍艦にあんまり見えないような船がグレーに塗られて奥に走ってるんですね》。(「この世界の片隅に」の、そのまた片隅に 後編)
物語の流れにはほぼ無関係な、ほんの短い時間、画面の片隅を通過するだけの小さな船でさえ、資料にあたって調べられた、実際にその時、その場所を通った船の再現である、と。この逸話は、この作品における当時の再現へのこだわりが、史実に忠実というレベルをはるかに逸脱したものであることをよく表していると思います。しかし、『この世界の片隅に』という作品は、ドキュメンタリーでも実話でもなく、まぎれもなくフィクションです。もし、完全に当時を再現したいのなら、そこに主人公のすずは存在してはいけないはずです。フィクションであるということはつまり、再現された背景のなかに、その背景によって、すずという実在していなかった人物がたちあがっているということです。