アブダクションと、アナロジーと、フラクタルが、フィクションを稼働させる前-言語的なレベルでの重要な要素なのではないか、といういい加減なことを言ってみる。
(アナロジーフラクタルは、パース的に言えば、イコン的な記号を可能にする二つの機能と言えるかも。ここでフラクタルは、フラクタル的な構造を見出したり、つくりだしたりする、思考の機能という意味で使う。)
アナロジーは、オリジナルとは別の場所(別の文脈上)にトポロジー的な類似を発見し、フラクタルは、スケールを越えて別の場所(異なるスケール上)にトポロジー的な類似を発見する。この二つがフレームの可動性を保証する。つまり、ある出来事1に対して、位相のずれた場所にある、それと似ているが別である相同物(出来事2)の発見や創造を可能にする。ここで、出来事1(フレーム1)に対する出来事2(フレーム2)の関係をフィクションと考えることができる。さらに、出来事2に対するフィクションとして出来事3を考えることも出来る。出来事2は、出来事1に対してはフィクションだが、出来事3に対しては現実である、と言える。
(同じ出来事も、他の出来事との関係によって、現実にもフィクションにもなり得る。これは要するに、記号内容と記号対象の関係と同じということか。)
そして、アブダクションが様々なフレーム間をインデックス的に結びつける。現実とフィクションの間に、あるいはフィクションとフィクションの間に、そして、現実と現実との間に、フィクション的な因果関係が見出される。ここまでくると、かなりストーリー的になる。
(アブダクションはインデックス的であり、換喩的であるが、アナロジーが隠喩的機能を可能にすると言える。前-言語的隠喩としてのアナロジーにより、因果関係とは別の出来事間の関係---詩的関係---も可能になる。)
現実とフィクションとの関係を、記号内容と記号対象との関係とパラレルであると考えると、第三項として解釈項が要請される。第三者としてのわたしにおいて、出来事1と出来事2の間に因果関係が発見される、という事もできる。しかし、アブダクション、アナロジーフラクタルという機能(これらは機能じゃなくて形式や構造だけど、ここではそのような形式を用いたり、そのような構造を発見したりできる思考の機能、という意味で使う)が、わたしと、諸出来事のとの間で起こる、「(フィクション的な)因果関係の発見、創出」を可能にする、ということもできる。
(わたしがアブダクションの能力をもつ、というだけでなく、アブダクションという推論形式が、わたしと出来事たちとの関係において作動する、と、考えることもできる。わたしが思考するというより、わたしは思考のなかにある、と考えることもできる。)