●『けものフレンズ』についていろいろ考えていた。これって、モロー博士のいない『モロー博士の島』でもあり、同時に『モレルの発明』でもあり、パースペクティブ主義的であり、そして、スピルバーグの『A.I.』のような味わいもある。
かばんは、ヒトではなく、ヒトのフレンズで、フレンズ化するということは、その動物の種としての特徴が、人間としての性格や特徴に転化してヒト型になるということだから、かばんは、ヒトという種のシミュレーションのような存在だということになる。
そして、フレンズという存在やジャパリパークという場所は、ヒトを楽しませるためにヒトがつくったものであるはずだから、ヒトのフレンズというのは本来あってはならない存在であるはずだろう。
ヒトを楽しませるためにヒトがつくった場所から、ヒトが一人もいなくなった後に、本来あってはならない、フレンズ化されたヒトがあらわれる。フレンズ化されたヒトというのは本来あってはならないので、ジャパリパーク・システムは、ヒトのフレンズという存在の様態を想定してつくられてはいない。かばんは、ジャパリパークというシステムにとって想定外の存在である。フレンズであるかばんに、ラッキービーストが話しかけるというのは明らかな誤作動であり、かばんは、ジャパリパークにとっては誤作動を生む間違った存在(自己言及的なカテゴリーミステイク)である。
フレンズを含めたジャパリパーク・システムにとって想定外であるかばんが、存在論的な差異(別のパースペクティブ)とでもいうべきものをパークに持ち込む。そこから物語がはじまる。