●以下の話は飲み屋の雑談レベルの思いつきで、検証したわけではないから間違っているかもしれないことをことわっておく。
科学革命は16から17世紀にはじまった。ガリレオ・ガリレイは「宇宙は数学という言語で書かれている」と言ったという。この認識こそが、天動説か地動説かということよりもずっと大きな転換だったのではないか。
おそらく、それ以前に数学は人間の知性だった。それは、土地を測量したり、自分の位置を確認したり、土木工事や建築物の構築を行ったり、あるいはお金の計算をしたりすることに役立った。それは、人間の精神を表すもの---哲学---でもあり、混沌とした自然から人を守るための人工物をつくる知性でもあった、のではないか。数学や秩序は人間的なものであり、自然や宇宙は混沌としたものだった。
(占星術のようなものも、星の運行は人間的な秩序と結びつけられた上で形式化されていた、のではないか。)
しかし、数学は人間の側にあるのではなく、自然の側にあるものだった。物を投げた時のその軌跡は数学によって予測できる。それは宇宙が数学によって書かれているからだ。自然を数学で記述できるということは、自然は数学的秩序に従うということだ。物理学は、数学を人間の側から自然の側へと移動させた。というか、数学が自然の側にあるという発見が物理学を生んだ。これは、とんでもない転換だったのではないか。
数学が自然の側のものであるからこそ、数学を媒介とすれば、人が自然に直接介入し、制御することが可能だということが分かってしまった。
ガリレオが生まれたのが1564年で、ニュートンが生まれたのが1643年。それから五百年も経っていないのに、スイスとフランスの国境では、山手線くらいの巨大なループ状のチューブのなかで光速近くまで加速された陽子同士をぶつけるという実験が行われるまでになっている。
物理学のこの五百年の、あまりに強すぎ、あまりに大きすぎる成功は、数学というものの位置の転換によるのではないか、という話。