立教大学で、ステム・メタフィジック研究会。『作家、学者、哲学者は世界を旅する』(ミシェル・セール)を読む。午後六時から十二時まで、間、十分の休憩が一度あっただけ。で、また、終わった時点で既に帰れる電車がない。
いろいろ刺激的だったのだけど、今回のぼくにとっての最も大きな収穫は、第三章の註(54)に気づけたことだった。清水さんがメイヤスー論などで使っているテトラレンマという論法が、ぼくにはイマイチよく分かっていなかった(第三レンマまではイメージできるとして、第四レンマをどうイメージしていいのか分からなかった)のだけど、第四レンマというのは「排中律を前提としない」ということを受け入れた時に成立するもののことなのではないか---というか、「排中律を前提としないという状態」そのものの表現として第四レンマはあるのではないか---と考えられると思った(Aでもなく、かつ、非Aでもない、すべてはあるのでもなく、かつ、すべてはないのでもない)。以下、第三章、註(54)からの引用。
《『第三の知恵』でセールは次のように述べている。「紀元前五世紀に、ギリシャの名もない賢者たちは、幾何学において間接帰謬法、つまり背理法による証明を発見した。辺が1の四角形の対角線について考えたところ、それが偶数でも奇数でも表されないことに気がつく。この矛盾によって、第三のものは排除されるべきであった。しかしそうすると、先の対角線は存在しないことになる。ところで、ここにあるのはまさにX字型に覆われた、四角形の中-心(Mi-lieu)であり、矛盾から四角形は中心なしに二つ分かれるとどうしても考えざるを得なくなる。それゆえ対角線は存在するが、言い表しえない。人はそれを、言語を絶するとか、不合理(無理数)とか、他者と呼んだ。いまや、数と図のうちにとつぜん現れた、このような他者のかぎりない多様性---実数の、真に偉大な代数学が生まれたところである」。無理数の危機は、背理法の危機であり、論理的にはAでなければ非Aでもないという、排中律の危機でもあった。しかしこうして見出されたものが、代数学の出発点であり、またこのような「第三のもの」の発見こそが数学のみならずあらゆる知にとって必要なのである。》
●これにかんして、柄沢さんがホモトピータイプセオリーとか準同型の話をしていたが、こういうことを調べはじめるとぼくの頭はフリーズしてしまう。
●以下は、ウィキペディアから
無理数の発見は古代ギリシャにまでさかのぼる。ピタゴラス教団は数を長さとして現れるものに限って議論し、すべての数は有理数で表されるとし、これは教団の教義として信奉された。しかしピタゴラスの定理からも示されるように2の平方根無理数であることも自明であったが、教義に反するため受け入れられず、このことは今日から見れば自ずから制約を課せられていたと見なせる。無理数の発見を公言したヒッパソスは、教団から追放され殺害されたとする伝説が残る。》
●以下は、「メイヤスーと思弁的実在論」(清水高志)より。
《こうした議論は、西洋の知的伝統からするともちろんきわめて異例であるが、東洋にはむしろ類似したものがあり、ナーガルジュナの『中論』で繰り返される 4 段階の否定の論法(テトラレンマ)を思い起こさせる。論点を明確化するために、その点についてもここで触れておくことにしよう。たとえば中論の 18 章の第 8 偈に現れる典型的なテトラレンマ(4 句分別)では、最初に(1)「すべては真実(如)である」という命題が語られ、次に(2)「すべては真実でない」という命題が述べられる。(1)は素朴に現実の世界を信じる者の見方であり、(2)は現象はすべて一刹那の後には変化するという洞察をもったものの見解である。そして三番目に(3)「すべては真実であり、かつすべては真実でない」という命題が述べられる。(1)のような素朴なものにとっては真実であり、修行をして(2)のような見解をもったものには真実でない、というのである。
しかしこれらは、ある刹那の次の刹那に起こることにいずれも依存したものなので、第 4 の命題(4)「すべては真実であるのではなく、かつすべては真実でないのではない」が説かれなければならない。仏教では何か対象を否定するとき、次の対象が浮かんでくるような否定、対象のあり方にその都度左右される否定を相対否定と呼び、そうでない否定を絶対否定と呼ぶ。「空」が理解されるのはこの絶対否定によるとされるが、(3)まではいずれも否定対象の状況に依存した、相対否定によるものである。それゆえ(4)では、(3)そのものが否定され、何らかの対象に依存しない(無自性な)かたちで、(3)の不可知論自体がさらに転倒されねばならない。(4)の命題は、なんらかの対象について語られるわけではないが、すべての対象について真実なことを述べており、「空」の立場からこうした否定を行う何者かも、また確かなのである。(真如の確立)》