●エリー・デューリング「持続と同時性」(「思想」2009年12号)読んだ。ニュートン的な絶対時間が成り立たなくなった相対性理論以降に、「同時性」という概念を哲学的にどう考えることができるのかについて、ベルクソンホワイトヘッドの考えを対照的にみていくというテキスト。ただ、これを読む限りでは、デューリングはベルクソンよりもホワイトヘッドの方に興味があるように感じられる。以下の引用は、主にホワイトヘッドに考えについて追っていく。
ホワイトヘッドは抽象的な数学的構成物と、生きられた経験の領野(realm)とのギャップを架橋するため。物理学的世界の基礎的概念を再構成しようとする。ベルクソンは、感覚-覚知(sense-awareness)のなかで端的に与えられたものに対して同様の関心を共有しているが、彼は、なぜ科学理論が、実在に関する有効な把握をわれわれに与えるのかを説明するよりも、[両者を隔てる]区分線をこそ描きがちである。》
《この方向における(ホワイトヘッドの)最初のステップは、時間とはまず何よりも、「自然の層化(stratification of nature)」であり、いいかえれば、時間とは自己存続的な実体ではありえず、過程のひとつの特徴でしかないと想定するところにある。一九一五年以降に強調された、時間は時空的な種類のいっそう深い統一性から抽象化される(実態的か関係的かといった時間の存在論的な地位は措くとして)という考えは、このことに関与している。すなわち、「空間なくして時間はなく、時間なくして空間はない」。》
《第二のステップは(…)、全体的な自然の創造的前進を記述する、無限に多系列な時間順序の現実存在(existence)を認識することにある。すなわち、「さまざまな時間系列のそれぞれが、創造的前進の何らかの側面を測定している。そして時間系列の全体的な束は、こうした前身の特性のすべてを表現している」。》
《同時性という問題は、この第二のステップと第一のステップとのあいだで、アインシュタイン相対性理論がもたらした同時性の関係の相対論化と結びつきながら発生する。もし(すべての位置とパースペクティヴにとって妥当な「今」という)絶対的な同時性という考えに、いかなる意味も与えないならば、さまざまな---バラバラではないにせよ---時間系列は、いったいいかなる意味で「束」のなかに集められうるのか。いかにして自然全体の原初的経験は、時間的パースペクティヴのこうした多様性に関わるのか。》
●このように設定された問題を解こうとするとき、ホワイトヘッドは「生成の問題」と「時間の問題」とを慎重に区分けする。
《(ホワイトヘッドからの引用)自然の過程はまた、「自然の移行」とも呼ばれる。私はこの段階で「時間」という語の利用をはっきり避けている。というのも、科学や文明化された生活の測定可能な時間は、一般に、自然の移行という、いっそう基本的な事実のいくつかの側面を見せるだけのものだからだ。》
ホワイトヘッドが注意するように、アインシュタインの同時性の定義でさえ、なぜ「同時性の同様の定義が、ニュートン群のうちにある一致集合の空間総体を通じ提示される」のかを説明しないままである。宇宙総体を通じて延長している同時的な出来事の広がりという観念は、最初から与えられている。》
《しかし、とりわけ時間的諸関係についてのわれわれの語りが意味する継起的な時間に独立した実在性を認めないならば、それは明白であるどころではない。もし時間が、出来事のあいだの諸関係の結合体(nexus)の向こう側にある実在的な何かではないならば、またもし時間が、自然の展開の根本的ではあれひとつの側面や次元にすぎないならば、われわれは同時性によって何を意味しているのか、そして同時性が、「共に」生じて展開する事象と言う原初的経験に、どのように関連付けられるのかを明確にしたほうがよい。》
●「持続」と「同時性」の循環、時間と空間、かなりややこしい話。
《持続によって、彼は感覚-覚知にとっての「今-現在」である全自然を意味している。しかし、「今」とは、もしひとつの同じ時間(ひとつの知覚行為に対応している時間)に知覚されるものを参照するという役割を担わないとしたら、何の役割を担っているのだろうか。ここでは、ある出来事(知覚しつつある出来事)と同時的である自然総体としての持続の記述に関与した[一種の]循環にはまり込んでいるという印象を与えるかもしれない。同時性それ自身が、こうした持続の現在の統一性のなかの一要因として定義されるので、われわれは実際、循環のなかで動いているように見えるかもしれない。しかし、これらのことは、論理的欠陥というより、持続の還元不可能な特徴を示すというのが事実だろう。総体としての自然の現示的直接性が原初的事実であり、その事実に(局所的であれ大域的であれ)いかなる同時性概念も究極的に依拠しなければならないことは真理である。そうであるかぎり、同時性それ自身は、出来事の積極的で究極的な関係とみなされうる。循環という見せかけは、根本的な意味で、持続が時間的であるよりもむしろ空間的であると認識されるやいなや、とり払われる。》
●何と何とが同時であるのかは、規約に依存するが、同時に、それは自然おいてあるのだ、と。たとえば「ポールが居眠りをしている最中に、ひとつの星が(アンドロメダで)誕生した」という文があるとする。
《(…)言明のなかで例示される関係は、空間的で時間的な座標系という観点から見て隔たった諸々の事件の座標の可能性に関わる一定数の規約に依存しているが、にもかかわらず、それは自然においてあり、何が時間に属し、何が空間に属するのか決定する前でさえそうなのである。》
《このことは、なぜホワイトヘッドが「持続」を、現われの世界の瞬時的な広がりに結びつく「瞬間(moment)」に対立させて、ある時間的厚みを伴った「厚切り」として記述するのかを説明してくれる。「厚切り」とは、ある一定の時間の経過に関与するものである。》
《時間とは空間の投影(あるパースペクティヴから空間を展開させること)であるのと同様に、空間とは時間の投影なのである。もっと適切に述べれば、時間それ自身は、空間と接続されたパースペクティヴとして、根源的に発生する。時間的パースペクティブと空間的パースペクティヴは、一緒に現れるのである。(…)時間と空間は、出来事のいっそう根本的な延長的連続体から導出されるが、そうした連続体は時間的でも空間的でもないのである。》
●パースペクティヴ
ホワイトヘッドの時間的パースペクティヴの意味は、「共軛(きょうやく)cogredience」の概念に要約される。それは、(相対的な)静止という基本的な考えによって、「持続の内部にある、立脚点の完全な質の保存」に差し向けていく。かくして時間的経験は、時空的立脚点を含意する。それは、静止の個別的な経験にあわせて、「ここ」と「そこ」の配分という個別的な感覚の形式において、三次元的な空間的背景をつぎつぎと規定する。》
《「知覚はつねに「ここ」にあり、持続は、知覚しつつある出来事と連関しながら「ここ」という完全な意味を提供するという条件に基づいて、感覚-覚知にとっての現在としてのみ措定されうる」。しかしながら、伸び広がった現在における持続の統合は、「われわれの感覚の認知を越えた領域において、何が今、直接的に起っているのか」と問うことが意味をもつという想定から切り離されはしない。この意味のひとつに従えば、「自然」は、何らかの局所的な時空領域と結びついた、知覚されたり知覚されなかったりする事実がなす時空系の総体を含んでいる。自然とは、根本的に「ここ」の向こう側に延長しているものともいえるだろう。だから、同時性には最初から超-局所的な意味が付与されているし、それは自然総体に直接的に延長されているのである。》
《同時性の純粋に時間的な意味など存在しない。》
《持続は、感覚-覚知のなかで、区分された出来事と実態との一定の領域と共に、局所的に与えられる。しかし、持続はそれ自身局所的ではなく、たんなる「観点」にも還元されない。「立脚点」という術語のホワイトヘッド的使用に、ここでわれわれは混乱してはならない。(…)立脚点は出来事の相互関係性に参与していく。立脚点はそれ自身、時空的諸関係の母胎を意味するのである。》
《(…)「ここ」と「そこ」の配分は、運動の相対性にしたがって、「静止」と「運動」というさまざまな配分と共に変化していくからである。知覚しつつある出来事と同時的な一連の出来事は、静止と運動というさまざまな状態によって与えられるパースペクティヴに基づいて、無限に区別される持続へと粉砕される。しかし、知覚しつつある出来事は、こうした持続のうちのたったひとつの持続と、まさに共軛する。つまり、そのひとつの持続のうちで、すべての持続の部分は明確に静止しているのであり、そのひとつの持続こそが知覚するといわれるのである。》
(追加)《かくして自然は、相互に侵食しあうこうしたパースペクティヴから織りあげられる。こうした事実は、相互に交差する無限に多様な恒常的空間が存在すると述べることで、あるいはまた、共軛というそれ自身の関係を伴った無限の時間系、つまり「時間の代替的な流れ」が存在すると述べることで表現されうる。》
(つづく)