●「なびす画廊の最後の十日間」に行きそびれた。なんてことだ。最近、目の前のことに追われ過ぎているかもしれない。一つやるべきことがあると、それに集中して他のことを忘れてしまう。
http://www.nabis-g.com/kikaku/k2017/nabislastexhibition.html
●『雲のむこう、約束の場所』を改めて観る。最初の三十分(中学時代のパート)はすばらしいと思うのだけど、残りの一時間が、いろいろ力が足りていない感じが出てしまっているように思った。
この作品はいろんな意味で『君の名は。』とのつながりが深いと思うのだけど、『君の名は。』が他の新海作品と異なるのは、少女という存在に対する聖性というか、不可触性がいきなり破られていて、男女の身体が入れ替わって、おっぱい揉んだり、トイレで男性器をみて「生々しすぎる」と言ったりするところだと思う。新海作品のキモである少女への不可触性が、最初に破られて、しかし、時間がずれているので二人は決して会えないということにより、不可触性が生まれ(新海作品のキモが回復され)、そしてラストに、入れ替わりではなく、互いに他人として二人が出会うことで、不可触性が乗り越えられるという、三段階の展開になっている。直接的交換→不可触→他者としての再-接触という段階的変化があり、そしてその段階的変化に対する試練として、忘却(ブランク)が差し挟まれる。いや、ブランクは試練でもあるのだけど、ブランクがあるからこそ、決して出会うことの出来ない二人の、入れ替わりと、再-接触(再-出会い)が可能になるとも言える。だから、ブランクこそが『君の名は。』という物語のメディウムとなっている。
雲のむこう、約束の場所』では、中学時代の絶対化された過去があり、次に少女が夢のなかに隔絶されることで不可触性が生じ(というか、もともとあった少女の聖性=不可触性が絶対化され)、不可触性が夢と約束によって破られることで終る。この展開がやはりちょっと単調というか、簡単すぎるように感じられるのだと思う。
君の名は。』の場合、直接的交換(楽しいドタバタ物語)→不可触(実は彼女は死んでいた=悲劇的要素)→(瀧による糸守の人々を救う大作戦=活劇的要素)→(カタワレ時=夢のなかでの再会・役割の交替・糸守救出作戦のアクターが三葉になる)→(作戦成功・世界そのものの変質)→(新しくなった世界で)他者として(フィジカルな身体として)の再-接触、という風になっていて、展開が起伏に富むようになっている。これはたんに要素が増えているだけでなく、様々なレベルで交換と忘却(ブランク)という主題が織り込まれていて一貫性と密度があるし、展開のロジックもしっかり組まれている。『雲のむこう、約束の場所』では、少女はただ閉じ込められ、ただ救われるだけだけど、『君の名は。』では、入れ替わりという不可解な事件の対処にしても、糸守救出作戦においても、二人が共働して行っていることにちゃんとなっている。
雲のむこう、約束の場所』でも『君の名は。』でも、主人公の友だちがイケメンで優秀で年上の女性にモテる、という設定が共通しているのが面白かった。