ポレポレ東中野で、『夏の娘たち〜ひめごと〜』(堀禎一)。上映最終日。満席の上に補助イスが出て、さらに通路に座布団を敷いて観ている人もいた。上映後に出演者たちによるあいさつ。
映画の終わり近く、緑の木立のなかを自転車で走る西山真来が自転車から降りる。この時背景に、幼い女の子が泣くような声がかぶせられる。この後、西山真来は、一度は結婚しようと思った実の弟である鎌田英幸から復縁を迫られ、お腹に子供がいることを告げる。しかし、このお腹の子が、これから結婚しようとしている松浦拓也との間の子なのか、その前に関係のあった鎌田との間の子なのか、本当はよく分からない。あるいは、最初に松浦と付き合っていた和田みさは、松浦との子を妊娠したと言い、実は嘘だったと言うが、映画の最後には子を身ごもっていると言う。でも、この子が、松浦の子なのか、それとも外波山文明との間に出来た子なのかは、よく分からない。そもそも主役の西山が、父親が誰なのか分からない人物として映画に登場していた。
あるいは、和田が、最初に子供が出来たと言い、実は嘘だったと言い、本当は子供がいたのだ、と、ころころ言う事を変えるように、西山の妊娠もまた、実は嘘だったということもあるのかもしれない。西山の父が、存在しない「旅の木こり」なのだとしたら、その西山の子が、存在しない「風の又三郎」であっても不思議はない。
父親が誰であろうと大した問題ではない。それどころか、本当に子供がいるのかどうかも、実は大した問題ではない。子供が生まれるための場所があれば、そこに子供はいるのだ。生まれるための場所とは、たんに女性の子宮というだけでなく、田舎の人々の複雑な関係であり、田舎の自然であり土地である。田舎の複雑な人間関係のなかで、誰かの元には子供が生まれ、別の人には生まれないかもしれないが、子供がどこから出てきても、出てこなくても、それは大した問題ではない。潜在的に子供はそこにいるのであり、その潜在的な子供たちという世界の地があるなかで、具体的な誰かが生まれて、育ち、死ぬ。
田舎の狭い人間関係のなかで、一人一人は具体的な位置をもつ。彼は、○○のとこの息子だ。○○ちゃんの息子って、えー、△△ちゃん。じゃあ、京都の叔母って、□□ちゃんなの。関係があり、関係のなかの位置がある。これはしっかりと強固で変わることがない。下元史郎が死んだとしても、外波山文明が彼の兄であるという関係は変わらない。しかしその一方で、人々は関係をそんなに尊重しない。西山と鎌田は、実の姉弟である可能性が高いにもかかわらず、子供のころから性的な関係があり、それを特に深刻な問題とも思っていないようだ。西山と和田とは親しそうだが、西山は和田の彼氏である松浦と性交することにまったく躊躇がないようにみえる。人間関係は狭く不変だが、人々はそれにはそんなに囚われていないようだ。
佐伯美波は、実の兄である鎌田が死んでも、「お兄ちゃんが悪い」「お兄ちゃんかっこわるい」とあっけらかんと言う。この物語は、悲劇的なメロドラマのようにも見えるが、実は、たんに鎌田という人はたまたま弱い人だったのだ、ということだけを言いたいようにも思われる。鎌田はたまたま弱い子だったから、お姉ちゃんにふられたことに耐えられなかった。一方、和田はたまたま強い子として生まれたから、友人に彼氏を取られても強く生きていくでしょう。弱い子もいるし、強い子もいる、それはそれでいい。そのこと自体は、複雑な人間関係とはあまり関係ないことだ、と。
一方で、宿命的な関係性があり、それは自分の力ではどうすることもできない。しかし他方で、そんな関係とは関係なく人々は適宜つがってゆく。川原で遊ぶ人物たちは、まるでそこに泳ぐウグイのように、誰が誰ともなく混じりあい、性的関係を結んだり結び直したりする。川原での遊戯は、佐伯と櫻井拓也との関係を誘発し、和田と松浦の関係も誘発し、そして、後の西山と松浦との関係を準備する。
(西山と鎌田は廃屋のような場所でつがい、佐伯と櫻井は神社の祠のような場所でつがう。それはたしかに「ひめごと」ではあるが、大して「秘め」られてはいない。西山と鎌田の関係は、西山の母である速水今日子には一目瞭然であるし、佐伯と櫻井との関係も、川遊びの面々には一目瞭然であろう。あるいは、和田と外波山の関係すらも、人々にとって自明のことがらでしかないかもしれない。)
西山と松浦の結婚は、最初に二人が出会った旅館の部屋から決まっていたということもできるし、川遊びの時、松浦が小学生時代に西山と「ここ」で遊んだことを思い出すことによって、西山-鎌田という結びつきが、西山-松浦という結びつきに運命の入れ替えが起ったとも言える。あるいは、西山と松浦が性交する場面の直前で、和田が酔って家に帰ることがなかったら、二人の関係は(生まれてこなかった子供のように)潜在的なままで終わったかもしれない。
この映画では、「これはこうなのだ」とは何一つ断言できず、手ごたえの定かでない潜在性の闇が背景に広がっていて、そのなかでなし崩し的に、しかし確実に、出来事がぼつっ、ぽつっと立ち上がり、推移していく。この感触を受け入れ難いと感じる人もいるかもしれない。しかしこれは、ちょっと他では見た事のないような、不思議な感触だった。
この映画は、たとえば『憐 ren』を観て「堀禎一すげえ」と思った時の感じとはかなり違っている。そして、この映画を観ることで、いまひとつよく呑み込めていなかった堀さんのピンクの作品をうまく受け止められるようになった気がする。