●にわか勉強、まとめ。タックスヘイブンの、租税回避や途上国搾取とは別の側面。金融の不安定化した世界へ至る、歴史的道筋の概要。国家と銀行との戦いで国家が破れたのが八十年代。基本的なソースは『タックスヘイブンの闇』(ニコラス・シャクソン)で、それに調べたことを足してあります。
●第二次大戦後からしばらくは、政治主導による、(ケインズ主義的な)資本への強い規制の時代だった。この時代は資本主義の黄金時代と呼ばれ、世界の広い地域で高い成長を実現していた。しかし、たとえばアメリカ、ウォール街の銀行家や金融関係者は、制限により翼をもがれた状態にあり、それを快く思ってはいなかった。規制から逃れる道を模索していた。
イングランド銀行は、イギリス国有の中央銀行だが、もとは、1692年に、シティ・オブ・ロンドンの豪商たちによってつくられた民間銀行であり、この銀行の設立と国家債務の創出が金融革命の先導役になったという、いわば今ある金融制度の基礎がここから生まれた金融の起源のような銀行であることから、自由を貴ぶ伝統があり、政府に対する強い自律性と、強い発言力をもつ。
シティ・オブ・ロンドンとは、ロンドン中心部の約二キロ平方メートル程度の狭い地域で、金融に関する重要な施設が集中している。この地区の地方政府が、シティ・オブ・ロンドン・コーポレーションで、その代表(市長)は、ロード・メイヤー・オブ・ロンドンと呼ばれる。シティ・オブ・ロンドン・コーポレーションは、ロンドンの内部にありながらもロンドンから自律しており、さらに、イギリス国内にありながらイギリスから自律しているような、国家のなかの別の国ともいえる区域だ。
シティ・オブ・ロンドン・コーポレーションは、記録にないほど古くから存在していると言われ(つまりイギリスよりも起源が古く)、そもそもイギリスの政治制度はシティ・オブ・ロンドン・コーポレーションの制度を模してつくられたと言われている。イギリス議会でつくられる法律は、一部は適応されるが、その多くがシティ・オブ・ロンドン・コーポレーションを完全に、もしくは一部、除外している。
外国の国家元首がイギリスを訪問した時、もっとも豪華な晩餐を開くのは女王ではなくロード・メイヤー(バッキンガム宮殿の晩餐は200人、ロード・メイヤーは700人招待する)であり、ロード・メイヤーから会見の申し入れがあった場合、首相は十日以内、女王は一週間以内に応じなければならないという。シティ・オブ・ロンドン・コーポレーションが所有するシティ・キャッシュというファンドは、過去800年の間に積み上げられた私的基金の集積であり、毎年一億ポンド使っても、ファンドの規模を維持できるというほど巨大なものだという。これはヴァチカンの資産を上回る可能性もあるが、記録にないほど遠い昔に設立され、一度も債務を抱えたことがない都市なので、会計データを公表する必要がないとし、そのデータは一切公開されない。
●イギリスの中央銀行であるイングランド銀行は、このようなシティ・オブ・ロンドンを背景にもつが故に、政府に対する発言権が強い。政府にはイングランド銀行の総裁を解任する権限もない。
●五十年代、イギリスでは外貨での預金受け入れが禁止だった(ケインズ主義的な、国境を越えた資本の自由な移動の制限により)。しかし、シティに属するミッドランド銀行が、米ドル預金を受け入れ、それに高い金利を提供していたことが、五十年代半ばに発覚する。イングランド銀行はそれに対し「それとなく注意する」が、それ以上の追究はしなかった(実質的には黙認)。
●五十年代後半は、植民地主義的な帝国としてのイギリスが崩壊しつつある時期だった。イギリスの大蔵大臣は、資本流出をくい止めるため銀行の海外融資を制限しようとした。しかし、銀行の権限が制限されることを嫌ったイングランド銀行は、外国の資金をロンドンに引き寄せ、国内の消費や輸入を制限するために、金利を上げようと考えた。そして、政府が何かしようとしたら政府を破綻させる、とまで言ってそれを強行した。政府は譲歩せざるを得なかったが、それに対する一種の報復として、マーチャントバンク(手形の受け取りと証券の発行を主な業務とする銀行、イングランド銀行は主にマーチャント・バンカーたちによって運営されている)の生命線であった、ポンド建ての国際融資に制限を加えた。するとマーチャント・バンカーたちは、国際的な取引をポンド建てからドル建てに変更した。イングランド銀行は、マーチャントバンクのそのような取引きを規制しない(ポンド以外の取引は、イギリス国内では「発生していない」とみなす)ことに決める。
●この時、ロンドンに、規制のない新しいドル市場が生まれた(ユーロダラー市場の誕生)。オフショア金融市場と呼ばれる(アメリカの法律の外であり、イギリスの法律の外でもある)「規制の真空地帯」が生まれたのだった。この時からイギリスの銀行は、二種類の帳簿をつくることになる。(1)当事者がイギリス人であるオンショアの帳簿、と、(2)どちらの当事者もイギリス人ではない、オフショアの帳簿(「2」の取引はイギリス国内では発生していないとみなされる)。植民地主義帝国が崩壊して、ポンドという船が沈んだとき、シティ・オブ・ロンドンは、ユーロダラーという新しい船にとびうつることができた。ここに、みえにくい、新たな帝国が誕生する。
(シティ・オブ・ロンドンのもつ、タックスヘイブンの海外ネットワークについてはまた改めて。シティ・オブ・ロンドンのネットワークのもつ富は、タックスヘイブン流入するすべての富の半分を占めている。それは世界の富の八分の一だ。中心であるシティは、二キロ平方メートルしかない地域なのに。)
●たとえばアメリカの銀行も、ロンドンへ行くことでアメリカの法律(厳しい規制)から逃れることができる。故に、大量のドルがアメリカからユーロダラー市場に流れる。あるいは、ソ連。ニューヨークにドルを置くのは避けたい(政治状況により差し押さえされるかもしれない)、しかし、崩壊しつつあるポンドには投資したくない。故に、ロンドンでドルを持つのが良い(ソ連の資金がロンドンに大量に流入)。ソ連がロンドンに大量にドルをもつ、という妙な状況が起きる。
アメリカ人にとっても、「ユーロ市場(ユーロダラー)」の存在は、外国人に預金をドルで持っていようと思わせる---結果、ドルが強くなる---かなりよい動機づけとなるので、有利にはたらく。
●このようにして、ロンドンのドル市場は爆発的に成長する。1959年→二億ドルの預金残高。1960年→十億ドル。1970年→460億ドル。1980年→5000億ドル。1988年→2兆6000億ドル。
●ユーロダラー市場は世界の金融部門や経済を結びつけた。それまでは、他国で発生した金融危機の影響はそれほど大きくは広がらなかった。それが、ある国で予想外の利上げがあると、システムに組み込まれているすべての国がほぼ即座に影響をうけるようになる。気まぐれな投機家が動かすホットマネー(超短期間で移動する資金)が、金利の変化を即座に世界じゅうに伝えるようになる。金融システムは不安定になる。
●さらなる危険。銀行は、他人から預かった預金を、さも自分のものであるかのように第三者に貸し出して、そこから利子を得る。Aさんがα銀行に一万円預けたとする。α銀行はそこから九千円をBさんに貸し付ける。Bさんはその資金でC社に支払いをする。C社はその九千円をβ銀行に預金する。これにより、最初は社会のなかにAさんの一万円分のお金しかなかったのに、α銀行の一万円の預金と、β銀行の九千円の預金で、あわせて一万九千円に、社会のなかのお金の量が増えている。外貨準備率(預かったお金のうち銀行が手元に残しておかなければならない割合)を一割と仮定すると、最初一万円だったお金は、一万+九千+八千百+……、となって、最大で十万円まで増えることが可能だ。これを信用創造といい、政府や中央銀行はこの外貨準備率を調整することで、社会に出回るお金の総量をコントロールしようとする。また、一定の現金を銀行に残しておくことは、金融パニックに対する備えでもある。
しかし、規制のないオフショア金融では、一万+一万+一万+一万……、と最初たった一万円だった額を、原理的には、どこまでも際限なく増やしつづけることが可能になる。実際に、そこまでのことはしないとしても、「マネー量の増大」「リスクの上昇」「不安定になる負債」という大きなマイナス効果を生んでしまう。
●外貨準備金の有無の効果。
通常の銀行。仮に外貨準備率10%、融資に対する金利5%、預金者に対する金利4%、営業コスト40セントとする。すると、預金100ドルにつき90ドルを金利5%で貸し付けて4.5ドルの利益。預金者に4%の金利を支払う→残り50セント(−営業コスト40セント)。利益は100ドルの預金に対して10セント。
準備金規定がない銀行。預金100ドルのすべてを金利5%で貸し付けて5ドルの利益。預金者に4%の金利を支払うと、残り1ドル(−営業コスト40セント)。利益は100ドルの預金に対して60セント
「規制から逃れた」だけで利益が六倍になる
●63年、ケネディ大統領は、外国債券の利息に課税しようとした。また、アメリ財務省は、ユーロダラー市場が「世界の国際収支の不均衡を悪化させた」とし、アメリカの銀行に、「この種の活動に参加することで国益に役立っているかよく考える」よう促した。65年、ジョンソン大統領は外向きの資本フローに対する限定的規制をしようとした。しかしどれも、国内の企業コミュニティから強い反発をくらう。
1979年、カーター大統領はオイルショックベトナム戦争時代からの赤字によるドルの急落への対策として、強力な金融引き締め政策を行おうとした。しかし、マネーサプライ(通貨供給量)のコントロールにより経済問題を解決しようとするマクロ経済学の理論を、無からマネーをつくりだす(規制がいっさいない)ユーロダラー市場が無化しはじめていることに気づく(マクロ的なコントロールが困難に)。
そこで、ポール・ヴォルカーFRB議長は、規制のない信用創造を取り締まるために、国際決済銀行を通じた新しい国際協力の枠組みをつくりだそうとした。しかしその時、ニューヨークの銀行は、イングランド銀行、スイス・ナショナルバンクと連携してこの構想を頓挫させる。つまり、マンハッタンの銀行家たちは、自分たちを強く縛るニューディール型の規制に対する攻撃の武器として、意識的にユーロダラー市場というシステムを利用するようになる。
そして、国VS銀行の戦いから、国が銀行を取り込もうとする流れになる。しかしこれは、国が銀行に取り込まれたということでもある。1981年、レーガン大統領はインターナショナル・バンキング・ファシリティ(IBF)を設立する。これにより、それまでは、ロンドンやチューリッヒなどのタックスヘイブン法域でしか行えなかったこと(準備金規定にも、市税や州税にも縛られずに外国人に融資すること)を国内でできるようにした。オフショア取引を堂々とニューヨークで帳簿につけられるようになる。さらに、1986年、サッチャー首相は、ロンドン市場の大規模な規制緩和(金融ビッグバン)を実行。
八十年代。レーガンサッチャーフリードマンの時代。資本というより「金融」のグローバル化。不公平というだけでなく、金融が非常に不安定になり、影響が広域にわたるようになる。マクロ経済学による政策が効きにくくなる。そして、世界的な成長率の急激な低下。このあたりの時代が、現代に至る基礎となっているように思う。