●お知らせ。けいそうビブリオフィルに、「虚構世界はなぜ必要か?/SFアニメ「超」考察」の23回目、「ここ-今」と「そこ-今」を共に織り上げるフィクション/『君の名は。』と『輪るピングドラム』 (2)がアップされています。今回は、『君の名は。』について書いてます。
http://keisobiblio.com/2017/08/23/furuya23/
●神村恵+津田道子の《知らせ》の記録映像を観ていた。
https://vimeo.com/174758185
これの最後に、一方の壁いっぱいに、「この場所」にいる演者二人を撮った映像を(反転して?)投射し、演者がこれが鏡であるかのように、映像に同期して動いている場面がある。この場合、今、ここにいる実物である二人の方が、映像の鏡となっていて、映像に合わせて動いているのだけど、しかし、それを観ている人は、あたかも映像の方が鏡であるかのように見える(そのように感じる)。そして、この状態で、神村さんは完全に映像と同期して動き、津田さんの動きが微妙にずれてゆく。この気持ち悪さ。これこそまさに、同時性が分岐してゆくという感じだと思う。
これは、実物と鏡像(映像)との同時性がズレているのではなく、神村さんと津田さんの同時性がズレている、という点が重要で、つまり、虚と実がズレているのではなく、虚実どちらをも含んだ「この時空」がズレて、分岐しているように感じられる。そのためには、虚と実との対称性が必要であり、かつ、同期とズレの両方がある必要がある。
さらに、この(疑似的な)「鏡」には、その場の状態を「観ている主体」であるはずのわたし(観客)が映っていない。鏡に映らない、透明な視点としての観客は、身体のないただの視点になり、あるいは、「この場」というイメージが、目(視点)を必要としない自律したイメージであるかのように感じられる。わたしは、どこからこのイメージを観ているのか分からない。あるいは、このイメージを観ているのが「誰なのか」が分からなくなる。
(これは、はじめてオキュラスで360度写真を見たときに、下を向いてもそこに自分の身体がなくて、その空間に没入しているように感じるにもかかわらず、その空間を見ているはずの「わたし」がいない、という時に感じた感覚に近い。)
このような感覚こそが、「フィクション」というものの成立を支える根本的なものなのではないか、というところに、どうやら、けいそうビブリオフィルの連載は向かっているように思う。「わたし」が主人公に感情移入して一体化するのではなく、このフィクションを「誰が見ているのか」が分からなくなる。誰の脳のなかでこのフィクションが立ち上がっているのか分からなくなる、ということが、フィクションにとってもっとも重要なことなのではないか、と。
つまり、わたし(ここ)が消えるのではなく(自他の区別がなくなるのではなく)、「ここ」と「そこ」との区別がありつつ、「ここ」が空洞化する必要があるのではないか。