●スカヨハ版「攻殻」観たけど、予告編を最初に観た時の悪い予感が全部当たってしまった、なんでこうなるかなあ、という感じだった。ただ、アニメ版のすべてのシリーズに対するリスペクトみたいなものは一応感じられるので、あまり「叩く」という気にもならず、だから、観て、うーんと思って、「観なかったことにしよう」とそっと扉を閉じて沈黙、というのが、本当は正しい態度なのかもしれない。
押井版に限らず、アニメシリーズのすべてから、様々な要素を切り出してきて、それらのピースをパズルのように組み立てて「別の絵」を浮かび上がらせるというようなつくりになっていて(ベースは押井版だけど)、アニメ版を好きで見ている人なら、このイメージをこういう文脈で使うのか、みたいな楽しみもなくはないけど、しかしその「別の絵」がどうにも面白くない。面白いところ、あるいは面白いアイデアが一つとしてみつからなかった。どの要素を切り出してくるのかというサンプリングのセンスも、それをどう組み立てるかという編集のセンスも面白いとは思えず、おお、そうくるのかといった新鮮なアイデアもない。ただ一つ、スカーレット・ヨハンソン草薙素子は思いの外よかった。アニメ版にくらべて重たい感じというか、アイデンティティが定かでない者の寄る辺ない感じがでていた。桃井かおりもよかったかもしれない。
(スカーレット・ヨハンソンの母が桃井かおりという、サイバーパンクらしからぬ「味があり過ぎる」感じがちょっと面白い。これはアニメ版にはないところだが、とはいえ全体として、電脳的な描写がまったくかっこよくない。全体として、金属的、電子的な感覚のイメージより、有機的、神経的な感覚のイメージを強調しているというコンセプトは分かるし、その方がイマドキ風だとは思うけど、それが「攻殻」的な主題と上手くマッチしていない感じだと思う。いや、違うか。イメージが、オルガニックではあってもニューロティックにはなっていないから、「攻殻」の世界と上手くマッチしない、ということか。)
相当な大金をかけてつくる映画なのに、なんで、こんな脚本で、というか、こんなストーリーでOKになって製作が進むことになってしまったのかが謎だというレベルで話が面白くない(あらゆる要素が「とってつけた」感じで、深みも鋭さもない)。オリエンタリズムの演出の仕方が謎(なぜ街なかに巨大な鯉のホログラフが泳いでいるのか、これはポストモダン的にカッコイイというのを狙っているのか、それとも広告が氾濫する東京の風景の醜さへの悪意あるカリカチュアなのか)。公安九課というのがどういう組織なのかまったくわからない(アラマキの各方面に対する政治力によって九課のある程度の自律性が保たれているという描写がない---アラマキは、社長とは会談するが、政治家や役人とまったく接触しない---ので、アラマキが居る意味がわからない、だから、九課の意義やコンセプトがわからない)。大企業の悪というものをただ社長一人を悪者にして表現しようとするのはどうしたって無理がある(なんでもかんでも「社長」のせいなのか、というか、社長が自分でいろいろ動き過ぎ)。そしてなにより、「クゼの正体」がまったく面白くない(もっと意表を突く---「攻殻」っぽい---アイデアとか、なかったのか)、等々。ダメなところを言いだせばキリがないのだけど、そもそもこの映画が何をやりたかったのかが(本当に、ただ要素を切り貼りしただけになってしまっていて)、ぼやっとしてよくわからない感じになってしまっていた。そして、新たな「攻殻」としての、新しいアイデアやコンセプトがまったくないと思った。
(例えば、テクノロジーの発展によって、アイデンティティの問題や自己言及、心身問題が鋭く先鋭化するという側面を強く押し出す押井版に対して、神山版は、テクノロジーと社会や正義の関係という主題を強く意識させ、そして、それを受けたアライズは、テクノロジーと資本によって、正義が成り立たないほど激しくかつ複雑な生存競争、生存戦略が行われることになってしまった世界というコンセプトを前面に出した。そのような、今までのものを引き継ぎつつ、新しい何かを付け加えるという感じはなくて、なんとなくふわっと「攻殻」っぽいものを作り直しました、という感じ。)