●『ひるね姫』を観て、神山健治はどうしても「父」を中心においてしまうのだなあと感じた。いや、父というより、父の父としての「王」と言うべきか。つまりこの物語では、ココネの父のモモタローのことではなく、志島会長のことだ。最後の最後は、最高の権威である王様に直談判して悪者をやっつけてもらうという構図になっていて、お話としての収まりはいいけど、そうなってしまうと現代ではリアリティというのはなくなってしまう。
東のエデン』でも、「王の不在」というのが主題となっていると思うのだけど、たとえ不在であっても「王」という位置を立ててしまったとたんに、物語が古くなる感じがある(ミスター・アウトサイドは、決して王の代理たりえない偽の王の代理であり、それに対し、主人公の滝沢は、代理であることが不可能であると知りつつ王の代理たろうと試みる)。あるいは「王」をたてるのなら「ウテナ」くらいに複雑にしつこく、それを脱構築しないとリアルではないと思う。『ひるね姫』では、王は不在ですらなく、物語の冒頭から堂々と出てくる。
この物語は、機械の王様(重工業)と魔法使い(ITやAI)の話で、機械の王様の時代が終わっていくという話でもある。しかし、機械と魔法は決して対立するのではなく、魔法使いは機械の王の娘であり、孫である、ということになる。それはいいと思うのだけど、この物語には、中央集権的(王権的)な機械と、分散的(精霊的)な魔法という、そもそも相容れない性質の違いが出てこない。この物語だと、機械の王の正統な王位継承者が、魔法使いの孫であるかのような話になっていて、いや、そういう風には都合よくは納まらないのではないかと感じる。
あるいは、分散的であるはずの魔法の世界は、機械の世界とまったくちがった形で、それを束ねる別の中央集権性があり(グーグル的な、あるいは強いAI的な)、その力は機械の王をはるかにしのぐものになるはずなのだけど、そこにはまったく触れられず、東京を焼き尽くすものは、夢のなかの、膨大なカラスの群れのような、黒い塵の嵐みたいな形で表現される。これは、ネットワーク上で増殖する匿名の悪意というようなものの表象として、最も陳腐で面白くない形象だと思う。
自動運転の技術というのは、機械の王である自動車産業と、新興の魔法使い集団であるIT産業との結びつきなので、そこに目をつけるのはすごく面白いと思うのだけど、そこから出てくる物語は「これじゃない」のではないか、と。昨日の日記でも書いたけど、自動運転に必要なのは、すぐれたプログラムであるより、膨大なデータ量だと思うのだけど、魔法の時代によって収集可能になったその「膨大なデータ量」いうようなことのイメージ(機械の時代とは別の「多」のイメージ)が、この物語には抜けているように思う。
だから多分、悪役の設定が違うのではないか。重大な敵は、渡辺一郎のような(悪巧みが王にバレてつぶされてしまうような)マヌケな小悪党ではなく、機械の王国を襲う黒い巨人(カラスの群れ)の方なのではないか。そして、この巨人は、魔法の世界のもう一つの側面であるはず。しかし、こちらのイメージが薄すぎると思う。
昨日の時点では、否定的なことはあまり書きたくないと感じていたのだけど、いろいろ考えているうちに、『攻殻機動隊』をつくった人がこれをつくってしまうのは、やっぱり納得できないとだんだん思うようになってきた。ここまで「分かり易さ」に譲歩してしまうのはどうなのか、と。ぼくは『サマーウォーズ』を面白いとは思わないけど、その『サマーウォーズ』と比べてさえ、何歩も後退している感じがある。
●現在、物語において「悪」をどう造形するのかということは、とても難しい問題なのだなあと思った。悪い奴は本当に悪賢いし、信じられないくらい卑怯だったり、得体が知れなかったりする。しかし、悪をあまりシビアに描きすぎると、この手の物語としてはギスギスし過ぎてしまうし、えげつなくなってしまう。そこで、悪を縮減して描くことになるのだけど、それをし過ぎてしまうと、今度はマヌケな悪役になり、ただ、物語を転がすために導入される役割としての「悪役」になってしまう。『ひるね姫』の渡辺など、まさにそうなってしまっていると思う。
宮崎駿はそのへんはやはりうまくて、ムスカとか、しっかり「悪」という感じがする。