●制作するには(あるいは、書き物をするには)、十分に集中できるだけの、余裕のあるまとまった時間が必要で、それ以外に、こまごまとした細切れの短い時間をできるだけつくって、本を読んだり、散歩したり(また、「偽日記」を書いたり)するわけだけど、そうなると、「映画を観る」というような、二時間程度の「半端にまとまった時間」が、なかなかとれなくなってしまう。
(「寝る時間」はちゃんと確保しないと、ホントに頭がボケボケになって、なにもできなくなってしまうし。)
●ハーマン『四方対象』は、第七章から、ぐっと面白さが増し、そして、ぐっと複雑になり、難しくなる。それまで、様々な哲学者たちの萌え要素を拾い出しては、自分なりにカスタマイズして磨き上げていたものを使って、第七章からハーマンのオリジナルと言うべき世界観の組み上げが本格的にはじまる。それが、えーっというような驚くべきもので、数行読んでは驚いて立ち止り、反芻し、前に戻って確認し、図を描いてまた確認し、また数行読んでは驚いて……、という感じで読むスピードもぐっと遅くなる。
これは面白い。面白いというのは、奇妙だということであり、虚をつかれるということであり、美しいということでもあり、新鮮だということでもあり、腑に落ちるということでもあり、駆り立てられるものがあるということでもある。麻耶雄嵩みたいな、変態的な(性的に変態的ということではなく、論理の組み方として変態的という意味)ミステリを読んでいるような面白さでもある。
二つ二項対立(対象と性質、実在と感覚)を掛け合わせた四項の図式をつくる。ここで、対象とは「一」であり性質とは「多」であろう。そして、感覚は現前するもので、実在は退隠(脱去?)するものだ。この四項のうちの二つずつのペアからなる、十通りの関係が考えられていく。特に重要なのは四通りの「緊張」関係で、感覚的対象と感覚的性質の間の緊張が「時間」とされ、感覚的対象と実在的性質の間の緊張が「形相」、実在的対象と感覚的性質の間の緊張が「空間」、そして、実在的対象と実在的性質の間の緊張が「本質」とされる。
これらのペアには、緊張だけでなく、分裂と融合という関係もある。感覚的対象と感覚的性質の間の緊張(時間)における分裂と融合が「対峙」を生み、感覚的対象と実在的性質との緊張(形相)における分裂と融合が「理論」を生み、実在的対象と感覚的性質の間の緊張(空間)における分裂と融合が「魅惑」を生み、実在的対象と実在的背質との間の緊張(本質)における分離と融合をが「因果」を生む、とされる。ここで面白いのは、空間から成る「魅惑」と本質からなる「因果」とが、どちらも共に「アドホックな関係」でしかないとされるところか。
つまり、実在的対象と実在的性質との結びつきである「本質」とは、前もってあるちゃんとした確固たる関係などではなくて、それは外部の存在者によってたまたま生み出されるアドホックな関係に過ぎず、《実在的なものや隠されているもの、本質的なものは確かに存在するが、それらは、非実在的なものや見かけ上のもの、非本質的なものの媒介によってのみ、互いに関係しているのである》ということになる。
(さらに面白いのは、たとえば、実在的な私と、感覚的な木とが出会い、関係が成立するとしたら、それは、それはその二項を関係させる、より大きな「志向性」のなかで起こるのだという指摘で、それは逆に言えば、私と木との出会い=関係が、それ自体として「対象」となることで、それを志向するより大きな第三項をつくりだす、ということでもある。これについては「ユリイカ」の幾原邦彦・特集で書いた。)
このように、ハーマンの思考は多分に形式的であり、形式上の必然性があって、後から中味をそこにねじ込んでいくという感じもあるのだけど、その無理やりにひねり出され、ねじ込んでゆくところから、独自の面白いアイデアが出てきているように感じられる。これは面白い。