●おお、YouTube高橋洋霊的ボリシェヴィキ』の予告編が……。この感じだと『恐怖』の世界に近い路線なのか。
https://www.youtube.com/watch?v=T5Re5N1rC1k&feature
さらに、『霊的ボリシェヴィキ』の特報。
https://www.youtube.com/watch?v=LHwsZtpvsrg
そして、『恐怖』予告編。
https://www.youtube.com/watch?v=qnMYgXMdzes&index
さらに、「2」があるのを今まで知らなかった。「映画の生体解剖ビヨンドⅡ "Beyond The Vivisection of Cinema 2"」。これは「触手」篇か。
https://www.youtube.com/watch?v=rR8NVZawM5o
そして、下のリンクが「『映画の生体解剖ビヨンド』"Beyond The Vivisection of Cinema"」。これは、これを一つの自律した映像作品として観ても傑作だと思う。
https://www.youtube.com/watch?v=pv0P6EHWr-A&t=699s
●以下の三作は、YouTubeで観られる黒沢清の最高傑作と言ってもいいと思われるホラー短編。改めて観てもどれも素晴らしいし、刺激されまくる。ぼくにとっての黒沢清への興味は、どうしても九十年代後半の作品に偏ってしまう(『ダゲレオタイプの女』も『散歩する侵略者』もまだ観ていません)。
これらの黒沢作品と「映画の生体解剖ビヨンド」とを見比べると、高橋洋黒沢清の根本的な違いがよく分かるんじゃないかと思う。
「木霊」(1998年)
https://www.youtube.com/watch?v=dK-RrD7KyqE
「廃校奇譚」(1997年)
https://www.youtube.com/watch?v=NyrCwGIl9A4
「花子さん」(2001年)
https://www.youtube.com/watch?v=_kmP8ZgcxIQ
黒沢清はやはり、時間と空間の作家で、時間や空間を越えるものは、あくまで時間や空間の構築によって、そこから滲み出してくる感じ。一方、高橋洋が、たとえば「作劇」という言葉を口にする時、それは、ある原理なりイメージなりが、時間や空間というものの秩序と根本的に別のものとしてあって、それが、そもそも仮のものでしかない時空のなかでどう出現するのか、というあり方を探っているという感じがする。秩序や時空は、何かがきっかけで壊れるというより、そもそも最初から壊れていて、人々によってあたかも壊れていないかのように、場当たり的に演じられているだけに過ぎない。人々が律義に秩序(紋切り型)を反復することそのものが、秩序の外にあるものに強いられているからだ(あるいは逆に、それに必死に抵抗している、のかも)、という感じ。
あるいは、黒沢清は、世界の時空の秩序を確信(信仰)はしていないがとりあえず信頼はしている。つまり、それ----時空---は、普段はそれなりにちゃんと作動はしていて、ふと気を許すと歪んでいて、あるいは、何かのきっかけによって決定的に崩れてしまう、というものではないか。そして、何かが決定的に崩れる直前の、「崩れ」が時空に滲み出して、歪みが時空を満たしてゆく様を巧みに描く。
対して高橋洋は、世界の秩序を強く求めているが、それ(時空)は全く信じられていない。つまり、時空の秩序はそもそも自然に作動してくれている何かではないから、嘘でもいいから無理矢理に組み上げ、規則を守り、役柄を演じていなくてはならない、という感じ。そして、イメージとか、原理とか、あるいは運命とかいうものは、演じられている事柄や内容そのものというより、それを演じつづけさせている力のようなもの、我々に「演じる(同じものを演じつづける)」ということを強いている抽象的な何か、として捉えられているのではないか。
高橋洋において秩序や時空は、妙なものが滲み出すとか、歪みが顕在化する場とかいうよりも、冗長性が失われて硬直化し、紋切り型化する(あるいは、紋切り型が積極的に利用される)、反復強迫的な場になる。運命は、人々を自動人形のように動かしているというより、自動人形であるかのように「演じる」ことを人々に強いている抽象的な力のように感じる。イメージは、抽象的な力を顕在的な強度とするための二次的翻訳物であり、イメージたちを因果律に沿って組み立てる時空の秩序は、さらにその力の三次的な翻訳物にすぎない、というか。どこかクロソウスキー的な感じ。