●アニメ「少女終末旅行」、Huluで六話まで。この作品の特徴はまず、主人公である二人の関係性にあるように感じた。一方がしっかり者のキャラで、もう一方がしっかり者に依存する甘えキャラであるというペアは、物語では珍しくない。しかし大抵は、たとえ一方的に依存するキャラでもそこには最低限の「フェア」の線が存在し、だからこそ二人は、ケンカしつつも信頼があるという関係になる。例えば、ルパンを繰り返し騙す不二子でも、ルパンに対して人として許し難いような卑怯なことはしないだろう。だから二人は対等な関係でありつづけられる。しかしこの物語のユーリは、(この状況では非常に貴重であるはずの)チトの食料を、平気で(無邪気に・悪意なく)奪って食べてしまったりするし、(この状況では非常に貴重であるはずの)チトが大切にしている本を、平気で(無邪気に・悪意なく)火にくべてしまったりする。おそらくユーリは人としてどこかちょっと壊れている。だからチトは、最後のところでユーリを信頼し切ることができていないと思われる。しかしそれでも、他に「人」が(ほぼ)いない以上、二人の関係はかけ替えのない、唯一無二の人である。世界には(ほぼ)二人きりであり、これは好き嫌いや、信頼できる出来ないを超えて強いられている(選択の余地はない)。この物語は、そのような二人組の世界の話だ。
しかし同時に、主人公の二人は、緩い感じの美少女キャラであり、それによって二人の距離や齟齬は目立たないし、強い摩擦が生じることもない。表面的には穏やかであり、チトが少し腹を立てても、すぐに許すことになる。しかしこの「許す」は、「困った奴だが憎めない」ということとは微妙に違う感じだ。このさじ加減が、この物語を、切実であると同時に、気楽な、絶望的であると同時に緩い甘美さのある、ユニークな感触のものにしているように思われる。
外に別の世界があるのかないのかは定かでないが、すくなくとも「この世界」は既に滅亡している。二人は、過去から残された、ほとんど壊れ、ほとんど尽きかけているインフラの上で、辛うじて生きている。彼女たちは、既に存在している、しかし今にも尽きそうなものたちによって生かされている。彼女たちはなにも新しいものをつくり出せない。だから、微かに残されている食料や燃料、かろうじて動いているインフラを求めて移動し続ける。旅路は気楽だが、死んでしまうよりも前に次の何かを発見できれば生き続けられるし、発見できなければそのまま死んでしまうという旅でもある。旅をつづけ、うまいことずっと生きられるかもしれないし、次の何かに辿り着く前に死んでしまうかもしれない。
人間たちは、新たな何かをつくる力を失っている。新しい世界をつくるには決定的に人の「数」が足りない。技術や知の伝承もない。環境はすべて人工物で埋め尽くされ、タネを蒔いたり、土地を耕したりもできない。「魚」は存在しているようだが、それを狩って食料とするほどに豊富にはいないし、養殖する技術も道具もない。新しいものが何も生まれない世界で、今あるものだけ(どこかに死蔵されている加工された食物)を消費して生きている。
彼女たちには、未来も希望も目的もない。ただ、食料や必需品に巡り合うために移動する以外にすることはない。水や食料や燃料の残量分だけの「時間の幅」があり、それ以外には何もない。時間の幅の分だけの残された生があり、その分だけの移動があり、そこに様々な世界の様相があらわれる。純粋なロードムービーのように、いま、ここと、それに付け加えられたあと少しだけの幅があり、その先は分からない(しかし、二人の間に微妙な齟齬があり、また、ごく稀に別の人間もいるので、世界の様相の変化だけがあるというわけではなく、希薄に物語もある)。二人にも過去はあるようだが、それも曖昧であるようだ。
今のところ、「少女終末旅行」には、そのような持続だけがあるのだが、これがこの先、どのように展開するのか(展開というものがあるのか)は、まだよく分からない。
(ユーリは、何かが壊れているということにより、この世界に順応しており、チトは、まだ人としての何かを維持しているという意味で、この世界に順応していない。)