●おお、持田先生の新著が出ている。しかもセザンヌ論だ。持田季未子セザンヌの地質学』。
http://www.seidosha.co.jp/book/index.php?id=3097
「先生」と言っても、学生時代に「文学」とか「記号論」とかの授業を座学で受けていただけだが。ぼくは、出身大学とはとても薄い、うすーい繋がりしかないのだが、持田先生には展覧会を何度か観に来ていただいたことがあった。
清水高志さんのツイッタ―での下の発言、分かりやすく、なるほどとと思う。
https://twitter.com/omnivalence/status/937242400769974272
《ハーマンが、『内的関係の理論』とも呼びうる上方解体を忌避して、項から関係を考えていると言い切ってしまうと、それはそれで下方解体モデルになってしまう。なので項は上方解体的な関係を持つとともに、ある項の部分として下方解体的にも捉えられ、それゆえどちらにも 還元できないとした方がいい。》
https://twitter.com/omnivalence/status/937243252461264896
《そしてそのとき、最初に上方解体的な関係を持っていた項は脱去する。第三項は、このとき最初の上方解体的な関係を内に含むが、それらの関係のバリエーションまでをも含むとした方がより良い。そうでなければ、表層的関係の実在化になってしまうからだ。》
https://twitter.com/omnivalence/status/937243529998299137
《そしてそのようにバリエーションの変化に耐えられるwithstandな第三項こそが、実在であると言えるのだ。》
https://twitter.com/omnivalence/status/937245730648965121
《一番簡単な準-客体モデルで言うと、中心にボールがあって選手たちがいるとき、ボールば誰か個人の意思でそのまま動かせる訳ではない準主体性を持つが、各選手たちも他の選手から見てそうしたエージェンシーをもっている。つまりこれが脱去。》
https://twitter.com/omnivalence/status/937246053996290049
《そして全体の流動的なフォーメーションを可視化しているのはやはりこの第三項=ボール。それがwithstandである限りでの実在。》
●メモ。『ハイ・イメージ論』(吉本隆明)をパラパラ読んでいるのだが『ハイ・イメージ論Ⅱ』の「パラ・イメージ論」が面白い。ここで、文学作品において、言語が意味や概念の流れを弱めて、おぼろげながら「イメージ」を呼び起こすことがある場合、それは言語のもつ概念や意味に対して、メタやパラの位置をもつ時ではなく、オルトの位置をもつ時であるとされる。
(ここで言われているのは、高校の化学でやる、ベンゼン置換体の、オルト、メタ、パラという位置関係。フェノールはオルト・パラ配向性だとか、ニトロベンゼンはメタ配向性だとかいうやつ。レキシンを例にとると、オルト(ortho-)位、メタ(meta-)位、パラ(para-)位の位置関係は下の図のようになる。図はウィキペディアから引用。)



《なぜオルトの位置とみなすべきかといえば、メタ(meta)の位置では言葉の意味の流れはいっそう弱まってしまう。そしてそのかわりに像化の強度はいっそうくわわっていく。このメタ位置ではすでにふつうの言葉の概念の群を統括する像とか、像と像とを概念が統括している状態を想定したほうがいいことになる。またパラ(para)位置では像の強度としては視覚の映像とひとしい鮮明さを想定しなければならず、言葉の像としては不可能にちかくなる。そこでふつうの言葉の像と概念を、ひとつ垂直の次元から(いいかえれば巨視的な世界視線と対応して微視的に)鳥瞰的に統括する像の意味をもつことになる。そのためとうてい言葉の第一次的な像化にふりあてられない。そこで第一次的な段階では、言葉が意味の流れを弱めてまでも像をよびおこす像化は、オルト位置の像化とみなすのがふさわしいことになる。》


そしてここでは、島尾敏雄『夢の中での日常』が取り上げられ、この小説の記述が、(入眠時の意識に近いような)オルト位置による言葉の流れと、その流れがパラ位置からの垂直的な視線の介入によって切断される、という出来事の繰り返しによって持続されていることを分析する。つまりここでは、小説における「像」の問題が、いわゆる「描写」というものとはまったく異なる次元から捉えられ、考えられているのが興味深い。
そして「オルト位置」を漂うこの小説は、最後にいたって、オルト位置からみられたパラ位置(オルト-パラ)という独自の位置へと飛躍し、つまりそのような位置を獲得=創造していて、それは《視覚器官を媒介せずにつくられた像》であり、それが《文学作品の言葉にとって至上の位置》であるとされる。
《〈裏がえった身体〉あるいは〈表面のない身体〉がどんな実在の身体をさすのでもないように、あるいはオルト-パラの言葉もまたどんな実在の像をさすのでもない。むしろ意味の流れを視覚(映像)とはちがった(たぶん死の向こう側から投影されるという比喩で語られるような)像によってまったく置き換えてしまった言葉の位置を意味している。それは視覚器官を媒介せずにつくられた像、あるいはすでに概念がまったく減衰された状態ではじめて可能な言葉の像だといってよい。〈裏がえった身体〉または〈表面のない身体〉は言葉という理念にとってなんであるのか、いまのところ不明だとしても、あかるい未明にはちがいないのだ。》
そしてこの後、「ハイ・イメージ論」は宮沢賢治にぐっと深入りしていくことになる。