●『ハイ・イメージ論』(吉本隆明)は臨死体験の話からはじまる。たとえば、仮死状態から帰還した人は、病室のベッドに横たわっている自分を救護しようとしている医師や看護師たちという「自分自身を含めた像」を、病室の天井の辺りから視ていて、その時の看護師の後ろ頭の髪型が印象に残っている、というような像を記憶としてもっている場合がある。いわゆる幽体離脱の視点だ。
吉本はこれを「想像力によって得られる像」と比較する。想像力のみによって思い描かれた像は、《対象物と想像している主体とを同時に視ているもうひとつの〈眼〉と、対象物のただの視覚像に分解される》、と。そして、人間を映像機械としてみた場合、その映像機械が自動的に産出する像はもともとそういうもので、ある程度までに衰えた意識の状態で、その機械の自動的作動が、幽体離脱のようにして現れるのだと仮定する。
そしてそれを、CGによる映像と重ねる。CGの映像は、たんに二次元的のスクリーンに描かれるのではなく、三次元座標のなかで既に造形されている空間やオブジェクトがあり、そしてその三次元座標のなかから任意の一点が視点として選ばれることで、その視点からの二次元映像が得られ、スクリーンに投射される。CGの映像において視点は任意のものでしかなく、その座標のなかの可能なあらゆる位置が視点であり得る(視点として等価である)。だから、CGによる映像には、《対象物と想像している主体とを同時に視ているもうひとつの〈眼〉》と《対象物のただの視覚像》とが、同時に含まれている。
ここで、ベッドに横たわる自分を含めた医師たちを視ている視点や、CGの三次元座標内で既に造形されている形態(潜在的にあり得る無数の等価な視点)が、高層ビルからの視点や航空写真など、高い位置から世界全体を見下ろす俯瞰的な視点と重ねあわされ、「世界視線」と呼ばれる。
吉本は、広場(原っぱ)と公園の違い、民家地域と集合住宅地域との違いということを言いだす。我々(の祖先)がもともと住んでいた、民家地域や、そこに広がる空き地としての広場や原っぱは、下から上を見上げる「逆世界視線」と、人が立ったり、座ったりしている高さの視点との交差として構成されていた。しかし、新しく成立している都市では、臨死体験で得られるような上からの「世界視点」が前提とされ、上からの鳥瞰的な世界視点と、人間が立っていたり、座っていたりする高さの視点とが交わることによって成立しているという。だから「原っぱ」と「公園」とでは、似ているようでいてその機能がまったく異なっているとする。原っぱは空を見上げる(逆世界視線)場所であり、公園は空から見下ろされる(世界視線)場所である、と。これは、現在の都市は既に「死」からの(幽体離脱的)視線を内包しているという意味でもある。そして、現在の都市は、この二つの空間(世界視線の空間と逆世界視線の空間という反転した空間)が混在しているのだ、と。
ここから吉本は、現代的な都市のあり様を表現する映像では、二種類以上の世界視線が折り重なっていることと、さらにそこに、人間が立ったり座ったりする高さの視点(主観的視点)があるという、三種類以上の視線が重なり合っている必要があると説く。しかしここで二種類の世界視線とは、かならずしも「世界視線」と「逆世界視線」ということを意味しない。吉本の言う二重の世界視線とは、一つの世界視線のなかにももう一つの世界視線が折り畳まれてあるということを指していると読める。(吉本自身はそう書いてはいないが)、分かりやすく言えば世界のフラクタル性が認められるということだと思われる。
例えば吉本が映画『ブレードランナー』を評価する時、その理由は、屋外の場面において(俯瞰的な「世界視線」は至るところにあるが)見上げられるべき「空」が、フレームから外されているか、闇や靄に包まれていて、外(上)に向かっていく「抜け」(逆世界視線)が徹底的に排除されていること。そして、室内空間の造形が、屋外の都市やスラム同様に、多重に折り重なった、そして「抜け」のない空間として造形されているし、屋外と同様に空間を使用したアクション場面もあること。この二つによって、屋外(都市)と屋外(都市)とが(内と外という関係ではなく)フラクタル的に同型的な関係をもち、それによって世界視線が二重化されていることを挙げている。都市を見下ろす俯瞰的な映像のなかにある無数のビル群やその窓の内側にも、今視ている世界視線と同様の世界視線が成り立っていることを強く感じさせる、と。
(『ハイ・イメージ論』は80年代の末、グーグルどころか、インターネットすらなかった---『攻殻機動隊』の原作よりも早い時期に---書かれている。)
●これらのことと、ここ数日の日記で書いてきた、(メタでもパラでもない)オルト位置(そして、オルト位置から、オルト-パラ位置への飛躍)としての言語イメージのあり様や、普遍喩という概念、さらに、《社会的な共同利害とまったくつながっていない共同幻想》、《共同幻想の〈彼岸〉》にある《またひとつの共同幻想》としての「他界」ということとを併せて考えると、ぼくがいま考えようとしている「幽体離脱の芸術論」の重要なヒントになるように思われる。