●(20日の日記からのつづき)。内部観測というのは、外部観測可能な「記号(と、その向こう側に現われ、または隠れる「対象」)」を世界の地のなかから浮かび上がらせる「解釈項」であると言えて、そう考えることによって、内部観測と、パースの記号過程の三項図式、そして、ハーマンの(実在的対象と感覚的対象を関係づける)「志向」とがつながるのではないか。
この時、包み、かつ、包まれるというような相互包摂的で、かつそれがフラクタル的に展開される二項関係と、(外部観測、解釈項、志向という)第三の項との関係をどう考えるのかが問題となる。ここでハーマンの言う二項の関係が、常に、実在的対象と感覚的対象という非対称的なものたちの間で一方通行で起こるということが効いてくるように思う(これが、思いの外、内部観測的)。これにより、二項の関係が個別なものであるようにあるが、そこから三項関係へとズレていかざるをえなくなる。
内部観測的一人称(解釈項)によって見出される持続する「それ」(記号→対象)という二項の関係が、外部観測(解釈項)、持続する「それ」(記号)、内部観測体(対象)へと、それぞれの役割を替えて三項図式へとズレていく時に、内部観測的一人称から、外部観測的(仮の)三人称の視点(ハーマン的には二項を関係させる志向)が生まれ、そして観測する一人称は、自らを内部観測体として外側から対象化される(制度的限定)ことを受け入れる。
ここで、(時空的に無限定である)一人称的に観測する「内部観測者」と、外部観測者によって対象化され、(時空的に)限定された「内部観測体」とが折り重なったものが「わたし」であり、だから、「わたし」の視点は常に一人称と三人称(と、三人称によって限定された一人称)とを同時に含んでいる。そして、無限定な「内部観測者」はそれ自体過不足ない(オートポイエーシス的、そしてハーマン的な脱去する実在的な)「一」であるが、外部観測により対象化され限定された「内部観測体」は、それ自体が「多」であり、多数のものたちによって構成的にできているし、多数のものたちによって構成されている関係の一項としての「一」でもある。
(つまり、内部観測者であるということの「一」という意味と、内部観測体であることによって一を構成する「多」でもあり、かつ多の関係のなかの「一」でもあること---下方解体と上方解体を受け入れること---とでは、同じ「一」でもその意味がことなってくる。)
●イオセリアーニ『ここに幸あり』をDVDで。すばらしく面白い。面白いのだが、しかし、なぜ、これをこんなにも面白いと感じるのかがよく分からない。ノンシャランスなんていう言葉ではまったく説明できないし、これを社会風刺というのも間違っているように思う(むしろ、都合の良すぎるファンタジーだが、それをうつくしい魂とも言う)。
たんに時空が開放的というのではなく、時空的にもお話的にも、ミクロなレベルでもマクロなレベルでも、表と裏とが常にひっくり返るような構造になっているからなのだろうか。