●『宝石の国』と『少女終末旅行』の最終話をhuluで観た。
宝石の国』は、技術的には画期的で、素晴らしく美しいと思うのだけど、世界設定の説明がそのまま物語になっているような単調さを感じて、どうも乗れなかったのだけど、後半になって、主人公のフォスのひねくれ度合いが増してくるにつれて、面白く感じられるようになってきた。で、ようやく物語が動き出した、というところで終る。長いプロローグだった、と。
少女終末旅行』は、ものすごい傑作というわけではないにしても、しみじみと味わい深い作品だった。人類が終わっていく、絶滅する、その瞬間が、あくまで穏やかに、淡々と、静かに語られていく。何かは、こうやって終わっていくのか、と。ネビル・シュートの『渚にて』が連想される。
あの、白いきのこのような謎の生物が、あらゆるエネルギーを吸収する存在であるとして、その生物が上空へ---上層へ---昇って去ったということは、主人公の二人が存在する階層には、もはやエネルギーがまったく残っていないということを意味する。だから彼女たちに残されたエネルギーは、今、二人の乗るケッテンクラ―トに積み込まれている食料と燃料がすべてだろう。それは、この人類最後の二人の命も、残りが僅かでしかないことを物語っている。
(白い生物は、人に直接的には危害を加えないものの、人が生きていけるための条件であるエネルギーやインフラを先回りしてどんどん吸収し、奪っていくこしで、ヒトの絶滅を促進させる---あるいは地球を浄化する---生物だ。あの原子力潜水艦の装備とエネルギーがあれば、二人はしばらくのんびり暮らせたはずなのに、それも平然と奪っていく。さらに、人類の記憶であるデジカメまで呑みこんで消してしまう。主人公の二人もまた、奪われるがままである。デジカメのフォルダが次々に開かれて、様々な画像や動画があらわれる場面は、まさに人類にととっての死の直前の「走馬灯」だろう。)
(二人が、デジカメに残された貴重な記憶が失われたことをほとんど惜しんでいないようにみえるのは、自分たちがもう、そのような記憶をもつことの意味をもたない---しばららく持続してただ消えていく---存在であるという自覚があるからだろう。)
(彼女たちは、人類最後の二人ではなく、既にただ二人であり、二人であることにのみ意味があるので---自分たちのものであれ、人類のものであれ---来歴や、記憶さえも必要がなくなったのだろう。)
とはいえ、白いきのこのような生物は、「最上層以外では、もう二人しか生きている人間はいない」と言った。「最上層」がどうなっているのかについて、この物語は何も語っていない。彼女たちが、現状で残されたエネルギーだけでは最上層まで辿り着けない、と言い切ることもできない。そこだけが余白として残される。