●『皆さま、ごきげんよう』(オタール・イオセリアーニ)を、DVDで観ていた。二度目。バカみたいな言い方だけど、なんと不思議なものなのだろうか。風刺や批評や告発などではなく、アイロニーでもニヒリズムでもペシミズムでもなく、苛烈でかつノンシャランスであり、魅惑的であると同時に毒気に満ちていて、寛容であると同時に容赦がなく、人間への賛歌でもなければ呪詛でもない(単純な肯定でも否定でもない)。浮世離れした、世界や人への独自の飄々とした距離感がありながら、現世を高みから見下ろしている(あるいは「死」の方から見返している)ということでもない。リアリズムであると同時にファンタジーであり、現在を生々しく反映していながらも、おじいさんやおばあさんの語るおとぎ話のように曖昧でもある。
世界には風が吹いて帽子や布が舞い、ローラースケートや自転車が疾走し、戦車や自動車が人を押しのけ、人々は行為やリズムを反復しながら、その波紋をひろげていく。人は、唯一の存在であると同時に群れであり、人も出来事も、別の時代へと転生する(固有性は、あり、かつ、ない)。世界は狭いと同時に広く、抽象的であると同時に具体的であり、その具体性もまた、寓話的具体性であると同時に、現実の直接的反映という意味の具体性でもある。あたたかみがあると同時に、認識は常に冷静であり、「あたたかさ」の感情が全体を包摂することを抑制する。
シリアスな状況はユーモアという高次の視線によって包摂されるのだが、そのユーモアが現実のシリアスさより強いわけではないことも示される。
感情的なところで、どのように、どのレベルで受け止めたらよいのかよく分からないまま、つかみどころなく、心の隙間をするするとすり抜けるようにして二時間が過ぎていき、しかしその後に(「強烈な」というのとは違う)消し難い印象を残す。その印象は軽やかで、官能的な喜びでもあり、かつ、世界に対するシリアスで重たい感情でもある。
●(追記)お知らせ。noteに、「現在を現実へと着地させる装置=部屋/九十年代の角田光代」をアップしました。初出は、「ユリイカ」2011年5月号 特集・角田光代、です。
https://note.mu/furuyatoshihiro/n/n5f9a2a3b60e8