●昨日は渋谷のユーロスペースで『わたしたちの家』(清原惟)も観た。
ふつうにシネフィル的映画ともいえて(リヴェットを「そのまんま」使いすぎと思う場面もいくつかあった)、新鮮な驚きというか「新しい人が出てきた」感はあまりなかったのだけど、非常に上手く作り上げられている作品で、その「上手くつくられている」という感じも単純ではなく、過去の様々な作品の様々な要素をジグソーパズルのように隙なく上手く組み上げている(勿論それだけではなく、場面ごとに様々な「発明」もあるとも思う)、その計算された構築性への感心と、それとは別に、何かじわじわくる感じとの両方がある感じ。前者にかんしては、すごくよく出来ているけどそこまで驚くほどではないとも思えるのだけど、そこには収まらない「じわじわ感」もあって、おそらく後者の方がこの作家に固有のものなのだろうと感じた。
この「じわじわくる感じ」に無理やり名前をつけるとすると、おそらく「頑固さ」なのではないか、と。この監督には、自分にとって動かすことのできない実現すべき「ある匂い」「ある調性」「ある肌触り」のようなものが明確にあって、それにかんしては頑として譲らない感じ、というのがあるのではないか。誤解されるかもしれない言い方をあえてすると、「自分の趣味(質感)」にかんして、明確な基準となるような一線があって(それはある種、絶対音感みたいなものなのかもしれない)、それを決して譲らないという強固な感じ。たとえて言えば、(内容とか表現的なものというのではなく)高野文子の作品から感じられる「頑固さ」、あるいは大貫妙子の音楽から感じられる「頑固さ」に近いような、そういう感じの頑固さを感じた。一般的な用法とは大きくズレるかもしれないし、もしかしたらセクシストだと非難されるかもしれないのだが、このような「頑固さ」を「ガーリー」な感じと呼びたい。
ぼくはこの映画では、非常に高度な空間にかんする構築性であるよりも、ガーリーな頑固さとでも言える「じわじわ感」の方により強く反応した。たとえば、ファッションと言うより、布の感触や、布を裁断したりある立体的な形に組み立てたりしたものへの強いこだわり、あるいはそれを身の回りに置くことや身に着けることへの強いこだわりが感じられ(いつの間にか---おそらく---芹沢硑介ののれんが壁にかかっていたりするし、玉のれんが水色の布のものにかわっていたりする)、これもまたリヴェットの「セリーヌとジュリー…」などから来ているとも言えるのだろうけど、リヴェットから触発されたにしても、それがリヴェットを引用したということとはまったく異なる表情や効果を生んでいると思った。で、この感じはフェティシズムともちょっと違うので(フェティシズムというより、空間性というか、身体のあり様や行為との関係性と結びついたものとして、物の触感へのこだわりが生まれている感じ、たとえばあのガラスの花瓶のフォルムのなんともいえない「もっさり感」が、家の空間全体に広がる様々な布たちの「調子」にすごく干渉してくる、みたいな感じ)、その感じを無理やりに、質感への「ガーリーな頑固さ」とか言ってみているのだが。
「家」の空間へのアプローチも、「布」の空間性へのアプローチの延長として現れている場面が、より面白く感じられた。
しかしこの作品での頑固さの感触は未だ、たとえば高野文子でいうと「田辺のつる」や「玄関」、大貫妙子でいうと「いつも通り」や「蜃気楼の街」くらいの段階にあると思われ、今後ますます、観客を戸惑わせ、さらには引かせるくらいまでの頑固さへと進展してゆくような気がする(というか、期待する)。
●一つの同じ家に、二つの相容れない空間が重なり合っている。一方には、(おそらく失踪したのであろう)父の記憶に固執する少女がいて、もう一方には、記憶をまったくなくした女性がいる。記憶に固執する少女には、父の記憶から離れて新たなパートナーと結ばれようとしている母がペアとなって同居し、記憶のない女性には、謎の組織と謎のつながりのある得体のしれない(隠されたものとしての「秘密」をもった)同年代の女性がペアとなって同居する(この後者の関係があまりにリヴェット的すぎるのだが)。前者のペアでは、不在の父が記憶として共有され、後者のペアでは、「記憶」も「秘密」も隠されていて共有されない(しかし、「洋服」や子供服を繕う「手仕事」は共有されてゆく)。二つのペアを包む一つの家であり、同時に相容れない並立空間でもあるものは、しかし、微かに響いているようでもある。
記憶のある/ないAと、Aを扶養する立場にあるBが同居する家がある。A-B関係(A、Bはどちらも女性)の容れ物としての家に、一方ではBが、もう一方ではAが、第三者としての男性Cを呼び込むことになる。BまたはAによって招かれた男性Cは、招いた方ではないAまたはBにとっては招かざる嫌な客である。このように形式化すると、二つのペアの有り様はきっちり対称的であるといえる。そして、招かれざる客である双方のC(一方は、Cによって家に持ち込まれたガラスの花瓶であるのだが)が、接触-衝突するという出来事が、並立し分離した二つの空間を衝突させる。だから、空間の並立性を破るのはそこに住む二人の関係の外から入り込んだ第三者である。
(そしてこの第三者同士の衝突は、双方のCを対消滅させるかのように働き、家は再び安定的に並立化されたAとBの空間に戻ったかのようだ。)
(関係ないけど、一方の空間からもう一方へ移動した「プレゼントの箱」は、リンチの『マルホランド・ドライブ』っぽい。)
解釈の多義性への開き方も含めて、このような発想・アイデア・形式それ自体は、現代においてある種の作品に日常的にふれている人であれば思いつくであろうという意味で、面白いけど、驚くほどのものでもないと思う(たとえば、この映画をつくった人が『残響』や『カンバセイション・ピース』を読んだことがないはずがない、と思わせるくらいには、着想のレベルで保坂さんの小説を感じさせてしまう---実際に読んでいるかどうかは知らないが、保坂和志の読者ならそう感じると思う)。二つの空間の接触のさせ方も、その結末も、想定の範囲内と言える。優等生的な感じ、みたいなものも感じられないことはない。
しかし、この作品をすぐれたものにしているのは、何といっても実際に「あの家」を見つけだした、というところにあると思う。というか、たまたま面白い空間を見つけたからそこでロケしたというのではなく、監督が、自分がつくりたい映画のために、あの家の空間を一から設計したかのようにみえるように撮っている、という風にみえる、というところが、この映画のすぐれたところなのではないか。
(「あの家」の空間がすばらしいという点で、文句をつける人はほとんどいないだろう。)
●音で一番気になったのは、最初の方にある、海辺を二人の少女が制服で歩いている場面。波の音が、近くの波と、遠くの波とで、二重に重ねられている(音の聞こえてくる位置がズレている)。もしかすると「遠くの波」に聴こえたのはたんに風のうねりなのかもしれないのだけど、二重化された波の音(のように聴こえたこと)によって、浜辺にいる時に感じる海の広さを、ほかの映画では感じたことがないような感覚で感じられた。ここで聴こえる「遠くの波」は、船の上にいるもう一人の女性が聴いているものかもしれないのだが。