●午前二時過ぎに原稿を送信して、少しほっとしたので、何か映画を観てから寝ようと思って、DMMの配信で黒沢清の『ダゲレオタイプの女』を観られることを知って、観ることにした。
ホラーなどではなく、あくまでクラシカルな「怪異譚」とでもいうべきものを、ベタに(それはつまり、何のひねりもなく、何の新奇性もなく、ということでもあるが)、端正な演出(だけ)によって成り立たせようとしたのかなあ、という感想なのだが、「うーん、なるほどさすがだ」とは思うものの、これはさすがに渋すぎるのではないかという気もした。わかりやすい「古典回帰」のようなものでもないし、ゴシック趣味みたいなフェティッシュを過剰に押し出してくるのでもないし(それは、黒沢清なので当然だが)。
『岸辺の旅』や『クリーピー』には、黒沢的ケレンとでもいうようなものもぎっしり詰まっていて、キレキレという感じなのだけど、ここではケレンはできるだけ抑えめにして、演出のエッジはあまり鋭く立てることなく、テンポもあくまでゆったりと、予想外の展開や驚くべき結末などを仕掛けることもなく(本当に、予想通りに展開し、予想の通りの結末に至る)、優雅で、もの欲しげな気配のまったくない、上品といえばとても上品なつくりだけど、どこか物足りなくも感じてしまう、といえばいいのか。
物語というか、ネタ的にいっても、せいぜい90分から100分くらいの話だと思うのだけど、それをゆったりと贅沢に130分かけてみせている。本来、怪異譚というのはこういうものなのだ、ギミックを詰め込むことで観客を引き込もうとしたり、ネタや展開の意外性で人を驚かせたりなどせず、怪異的な、妖しく、重たげな雰囲気を漂うように、きわめて繊細な手つきで持続させ、そのような浮き世離れした「怪異の持続」そのものを楽しむものなのだ、ということなのだろう。
きっとそういうことなのだと思うし、そういうものとして納得はするのだけど、納得するということと、おもしろいと思うということとはやはり違う。まあでも、過剰にキレキレを強調するのではなく、なるほど、なるほど、なるほど、という、納得の手応えの持続だけで一本の映画を成立させるという、超高等技術でしかも超地味というのも、まあ、アリなのかなあとは思う。
『回転』とかポーの小説みたいな、古典的な味わいが基本にあると思うのだけど、しかし、現代のフランスの風景や事情が描き込まれるし、主人公もあくまで現代の若者で、物語の舞台はあくまで「現代」であることが示されている。しかしそこに現れる「怪異」はあくまで古典的なもので、この噛み合わなさをどう消化していいのか、観ていて最後までよく分からなかったというところはあった。
いや、映画の最初の方では、スマホで高精度の写真が撮れる時代に、ダゲレオタイプの、等身大の像をデカい銀盤に焼き込む巨大なカメラと拘束具が出てくるその存在感のインパクトはかなりすごくて、それによって「現代性」と「古典性」とが確かに拮抗していると面白く感じられたけど、話が進むにつれて、徐々に、古典性が現代性によって薄められ、また、現代性が古典性によって曖昧に弱められ、どっちつかずの感じになってしまっているように感じられた。
屋敷に出る幽霊は、ヒロインのマリーの母ということに物語上ではなっているけど、むしろダゲレオタイプの時代(ビクトリア朝時代)の女性の幽霊であり、だから、被写体となるマリーの二重性も、母と娘の二重性というより、現代の若いフランス人女性とビクトリア朝時代の女性(まさに銀板に刻みつけられた魂)の二重性(分裂)としてあるはずだ。映画の前半は、そのような二重性が成り立っているからこそ、現代性と古典的怪異譚の二重性(拮抗)が成立しているのだけど、マリーが、生きているとも死んでいるともつかない状態になったとたんに、映画のなかで「ダゲレオタイプによる像」の役割が後退してしまって、現代性と古典性との緊張が緩んでしまったのではないかとも思う。
いや、違うか。だから後半の展開は、ジャンが小悪党化したり、父が衰弱したりする方をみせるよりも、むしろマリーの何者でもなさの方(二重性の消失によってまったくつかみどころのない何者かになってしまった)を強調すれば、面白かったかもしれない。ジャンの焦り(小悪党化)は、マリーの「何者でもなさ」と相関的な出来事なはずなのだけど、その相関性を弱く感じてしまったから、この映画の後半を「物足りない」と感じてしまったのかも。
後半のマリーは、現代性からも古典性(ダゲレオ的な像)からも、どちらからも切り離されて浮遊した存在で、だからこそマリーは屋敷から出るし、しかしジャンの部屋に留まってトゥールーズには行かない。ここでは既に、現代性と古典性との対立(分離)には意味がなくなっている。重要なのはそのことであって、屋敷や再開発をめぐる男たちのゴタゴタはどうでもよかったのではないだろうか。
「教会」でのくだりからラストまでの流れなど、この結末が「現代」を舞台とした物語として成り立つとは思えない程に「ベタ」(あまりに想定内なので逆に意外、みたいな感じ)で、これで押し切って、このまま終わるのかあ、みたいに、ぽかんとしてしまった。でも、このような「とまどい」を生じさせることこそが、この映画のおもしろさなのだと思う。
まあでも、単純に「演出はすごいけど脚本が弱い」んじゃないかという気もするのだけど。