●駅ビルにあるカフェに、座席数としてはごく少数なのだけど、すごく座り心地のいいソファの席があるのを発見した。ウチにあるイスだと、ちょっと長く座っているとすぐに腰や背中が痛くなったり、肩が凝ったりするのだけど、そのソファに座っていれば、一日じゅう本を読んでいてもあまり疲れない感じ。コーヒー一杯でつい長時間粘ってしまう感じ。
●『コルヌトピア』(津久井五月)をいうSF小説をなんとなく読んでみた。イメージというか、ヴィジョンはとても面白く魅力的なのだけど、そのヴィジョンから引き出される思弁が浅いように思えて、惜しいと思った。それでもかなり楽しく読んだけど。
SFというのはやはりスペキュレイティブフィクションという側面が強いと思っていて、その面白さは、ヴィジョンの斬新さと、そこから導かれる思弁の深さや新しさゆ意外性にあると思うのだけど、前者は面白いのに、後者が弱いように思えた。同じアイデアでも粘ればもっと面白いことが出てきそうなのに、手近なところにある「解」にとびついてしまっているというか。異端植物とか、森林と庭園との対比とかが、あまりにわかりやすく人間の心理や人間関係の比喩になってしまっていて、それを描くならSFである必要はあまりないのではないか、と。
(ちょっと、黒沢清の『カリスマ』を連想したりした。)
主な登場人物である三人が、皆、きわめて内省的な人物なのだけど、その内省性が中途半端というか、類型的に過ぎるのではなかかと思った。この三人の内省性の、ぞれの独自性を生かしながら、もっと深くまで突っ込んでいきつつ(内省性によって内省性を突き抜ける、という風にして)、それが、情報科学と植物の関係にかんする新しい知見やアイデアと上手くからめば、もっともっと面白い思弁が導き出せる余地が充分にあるような、とてもポテンシャルの高いヴィジョンが提示されていると思う。もっと突っ込んでいけば、今までにあまりなかった、あたらしい形のシンギュラリティ物にもなり得たんじゃないかなあ、と思った。
思弁を、小説として魅力的な形にして表現することは上手い作家だという感じはあった。
(SFによって示される「未来のヴィジョン」は、すぐに古びてしまうのだけど、むしろそこにこそ意味があると「レトロ未来」のエリー・デューリングならいうだろう。)