●若い頃はそうでもなかったのだけど、というか、若い頃は疎遠にさえ感じていたのに、音楽というものがとても「必要なもの」になってきている感じが最近ある。しかし、とはいっても、ぼくは音楽について、音楽を聴くという経験について、そのなにがしかを言語化、言説化したり、分析的に考えたりする能力はまったくないし、また、その欲望もない。ぼくの音楽への欲望は、文化的なものではない、という感じがする。
モーツァルトのピアノ協奏曲26番も、ベートーベンのピアノソナタ31番も、バルトークのピアノ小品も、五十年代はじめのビル・エヴァンストリオの演奏も、マディ・ウォーターズのブルースも、電化したマイルスも、カーティス・メイフィールドマーヴィン・ゲイの七十年代のソウルも、ブルガリアポリフォニーコーランの朗誦も、坂本龍一の「ハッピーエンド」や「ラストエンペラーのテーマ」も、池田亮司AOKI takamasaも、jjjやキッドフレシノの日本語ラップも(そういえばfebbは亡くなってしまっのだなあ…)、ぼくにとってそれぞれ固有な質感をもつ、強い快楽をともなう経験であり、それは、季節ごとにかわる空気の感触や空や花や葉の色や、スクラップ・アンド・ビルドで建て替えられていく都市の風景の移り変わりを味わうことや、疲れた夜に湯船に浸かる感覚とほんど変わらない。
だからぼくには、音楽が、社会や文化のなかでもつ意味や文脈といったもの(象徴的価値)がいまひとつよくわからない。音楽の「意味」に対する思い入れがないのだと思う。矮小化された例でいえば、「ロックは体制への抵抗だ」みたいなことがわからない。ある音楽が、政治的主張も含めた、ある「生のアティチュード」だという感じがよくわからない。あるいは、音楽に対して「物語」をほとんど求めていない(ただ、ものによっては「物語的にじわっとくる」ことはある。ただ、ぼくにとってそれは「音楽」というより「ミニマムな物語」だ。)。
たとえば、ブルースの発生には歴史的な背景がある、というようなことはわかる。あらゆる対象や経験(図)には、その背景となる地(文脈や歴史)があり、純粋に「そのもの(その感覚そのもの)」自体などない。それはわかっているつもりだ。
今、みている夕日の色も、今、触れている空気の触感も、気象的な様々な要因が積み重なって生じているものであり、つまりそこには複雑な因果関係があり理由があり、地球という天体の歴史がある。化石燃料の燃やしすぎによる地球温暖化とか、大気汚染とか、森林地帯やジャングルの減少とか、人為的、政治的な影響もそこには少なくなく作用しているだろう。自分では知らないうちに放射能に汚染されているかもしれない。しかし、夕日をみているわたしにはそのような知識はなく、ただ、夕日の赤の感触として、肌に触れる空気の感触として、それを感じ、その「感じ」を必要としている。ぼくが音楽を聴いている態度は、おそらくそのようなものだ。それは、もっとも愚かな消費者の態度ともいえるかもしれない。
そのような態度を誇らしいと思っているわけでもないし、正しいと思っているわけでもない。むしろ、音楽の文化やコミュニティに貢献しようとせず、ただ「与えられたもの」としてそれを享受しているだけで、人類の遺産を食いつぶすような聴き方だという後ろめたさをもっている。だからぼくは、ある特定の「音楽(の意味、コミュニティ)」のなかには入っていけない。この感じは、なにかが根本的に間違っている気もする。しかしそれでも、ぼくにとって「音楽」はそのようなものとして必要なのだ。なんかすごい必要なのだ。
●うーん、言いたいことと違ってきている気がする。たとえば、ある音楽が、それをつくったり演奏したいしている人、さらには、生活のなかでそれを聴いている多くの人たちの、生のありようや、歴史的、社会的におかれた立場などと不可分であるということはわかる。そこにはまさに、血や汗と涙が染み込んでいるだろう。しかし、わたしが今、その音を必要としているという時、そこで「必要としている」のは、そのような人々の生を想起することや、ある生の形を共有する(自分と重ねる)こととは違っている。いや、あるいは、そうとは意識しないままで、その人々とどこかつながっているのかもしれないし、そんなことはなく、ただそのスタイルや響きを新奇な「感覚」として消費しているだけかもしれない。しかし少なくとも、意識的に、その音楽の演奏者や聴衆たちのことを想起したり、そのコミュニティとつながったりしようとしているわけではないことは確かだ。いろんな景色を見てはいるが、それはいつも窓から外を見ているに過ぎない、という感じかもしれない。ある特定のアーティストに対する思い入れや同一化というものもあまりない。
そういうことではなく、脳が糖分を必要としていると感じるとか、体が柑橘系の果物を欲しているとか、今日は朝からずっと肉が食いたいと思っているとか、もっといえばのどが渇いたから水分が欲しいとか、そういう感じに近いものとして、ある質感をもった音楽やリズムをすごく必要としている、というような、非文化的な、「直に欲している」感じが、最近のぼくにはあるということ。俗に「〜成分を補給する」みたいな感覚か。脳が糖分を必要だと感じている時に、そこで接種しようとしている糖分の化学的な組成を分析しようとは思わないだろう。この感じは、音楽についてだけあるという訳ではないけど、音楽において特に強くそれがある。
これは、ぼくが音楽にかんする(いわゆるリバースエンジニアリング的な意味での)知識や技能がまったくないので(小学生の頃のリコーダーでさえまともに吹けなかった)、作り手の手の内がほとんど見えないからこそ起こることなのかもしれない。中学生の時、へたくそなバンドでギターをちょっとだけやっていたとか、幼稚園の時にピアノを一年くらい習っていたとか、そういうちょっとした経験でもあれば随分違うのかもしれない。ミュージシャンはぼくにとって魔法使いのようなものにみえる。ぼくが、無知であり、無能であり、ニワカであるが故に、「音」から人為性(操作性や建築性)をあまり見て取ることが出来ず、だから、人工的な構築物というより気象的な現象のようなものとして感じ、文化的な欲望というより生理的欲求に近いものとして、それを欲する感じになるのかもしれない。
(人類学的にみれば、歌われる歌の微妙な音階の違いが身内と余所者とを見分ける指標となったり、演奏や踊りが儀礼のなかで大きな意味をもったりするのだから、音楽はあきらかに集団的で社会的な意味を担っている。それに対し、ぼくのような文脈を無視した接し方は、ポストモダン的で、高度資本主義的な、個として切り離された、自閉的で非本来的な、特異な「消費」の仕方といえるのだろう。)
●逆に言えば、「必要としている」という欲求がなくなってしまうと、まったく音楽を聴かなくなってしまったりする。むしろ、日常生活のなかで音楽がかかっていると邪魔だと感じてしまう。ただ、欲しているときは、とても強く欲してしまう。