●「ハレルヤ」(保坂和志)では、猫の「花ちゃん」に関しては、「私」とその「妻」は「思考体」として一つであるように感じられる。小説は「私」という一人称で語られるし、目の見えなくなった花ちゃんと「私」が二人だけで深夜の路地を散策する場面もある。「私」が花ちゃんと一緒にいる時、常にそこに「妻」がいるというわけではないし、「妻」が何を考えているか(内省)が直接書かれることもない。しかしそれでも、「私」の花ちゃんに対する考えは、「妻」の言葉や態度や雰囲気を直接反射し、(そしておそらく「妻」もまた、「私」の言葉や態度や雰囲気を反射し)それと干渉しあうようにして成り立っているように感じられる。そしてこれは、いわゆる「対話」ということとは根本的に異なることなのではないかと感じられる。
「生きる歓び」で、花ちゃんは「二人の前」に現れたのだし、花ちゃんを連れて帰るという選択も「二人の間」でなされた様に書かれている。この時に妻(彼女)が何を考えていたのかは、出来事を記述する「私」にはわからないとしても、その選択が「二人の間」で成立していたのだということはわかっているだろう。
「ハレルヤ」で「私」は、「妻」の発した言葉に対するひっかかりを感じている。それは、違和感というよりも、「私」の判断に保留を要求する、一つの謎のようなものとして現れている。花ちゃんの胃に大きな腫瘍がみつかり、このままだと十日か二週間の命だと獣医に言われ、翌日、より詳しい検査を受けるために農工大へ行く。検査までの待ち時間に、農工大のまるで北海道のようなキャンパスを、花ちゃんは喜んで歩いている。
《五月の晴れた郊外のキャンパスは鳥がしきりに鳴き交わしていた、ツバメが低く飛び回っている、花ちゃんはその下で喜んで歩いている。》
《(…)それからは何も口に入れていない、水も飲まない、貧血と絶食で十日から二週間しか持たないという予測には逆らいようがない、しかしいまクローバーの地面を歩き回る花ちゃんはそんななのか? ガラケーの携帯で草の中にいる花ちゃんを撮ると楽園にいるようだった。》
しかし、検査の結果は手術すら無理で、あとは《できるだけラクに逝けるようにしてあげるしか…》という状態であるという。しかしそれでも花ちゃんはご機嫌なのだ。
《「花ちゃんは生きたいのよ。」
妻は何度も車の中で口にした、私はそれを一度もそういうことじゃないとは言わなかったが私は本当言ってわからなかった。生きられる日数がこんなに明確に区切られた、実際花ちゃんはもう丸二日何も食べれてない、貧血の原因である腫瘍の出血を止める方法はない、だいいち腫瘍は小さくならない、この貧血の状態では抗ガン剤は使えない、完全に手詰まりなのに花ちゃんはひとりご機嫌だ。》
《妻は農工大の庭で遊ぶ花ちゃんを見て「花ちゃんは生きたいって言ってる」と言った。私はそれは人間の言葉だという思いがあったから、その妻の言葉を否定したいというのではまったくなく、もっと適切な、花ちゃんの気持ちをあらわす言葉はないのかと思っていた、しかしそんなことを捜し当てるより話は早く進んでいった。》
《「花ちゃんは生きたいって言っている」という妻の言葉は猫の思考や感情を擬人化している、もっと言えば妻は自分の願望を花ちゃんの気持ちに託して言った、そこに私はためらいを感じた。》
ここで、妻の言葉に「疑問を感じ」たり「違和感を持っ」たりするのではなく、《ためらいを感じた》と言われているところに、二人の思考の一体化というか、その言葉がどちらから出たというところには意味がなくなっている、ということが現れていると思う。
農工大から帰った後に「私」は、Lアスパラギナーゼという、治療というより検査薬として使われているごく弱い抗ガン剤があり、以前、それによってペチャの命が二ヵ月延びたということを思いだす。医者に頼んでそれを試してもらうと、通常はすぐに耐性ができてしまって効かなくなるその弱い抗ガン剤が花ちゃんには劇的に効果があり、余命が一年七ヶ月も延びることになる。
農工大の庭で、草の中を歩き回りながら花ちゃんは、
「あたし、こんなに遊べるよ!」
と、遊んでみせたんだと今は思う。あそこで花ちゃんがご機嫌に遊んでみせたから私は〈Lアスパラギナーゼ〉を思いついた。あそこで遊んで見せなければ私のアタマは重く悲嘆にくれていただけで余命宣告された日々がただ過ぎていった、花ちゃんは私を喜ばせることで私の沈んで重たくて働きを止めたアタマを動かした。》
ここまでくると、花ちゃんに対して、「私」と「妻」という思考体が共働しているというより、花ちゃんも含めた、三つの存在が共働して思考しているという感じになってくる。
《それにだいたい私と妻のしゃべっているのはそんなに人間の言葉か? ニャアニャア言ってないだけで、考えているのは花ちゃんのことだけだ、というか花ちゃんの代わりに私と妻はしゃべっていたのかもしれない、それを否定する根拠がどこにあるのか。妻の、
「花ちゃんは生きていたいと言っている。」
という言い方は最善だった。願望という形でこそ顕れている現実が猫にはあるのだ。》
さらに言えば、Lアスパラギナーゼの存在を「私」が知っていたのは、ペチャという先例があったからだ。《ペチャのときは自分でネット検索で探しあてたから見つかるのに二週間かかった、花ちゃんには二週間も猶予はなかった、だから花ちゃんはペチャに救ってもらった、花ちゃんにはペチャもジジもチャーちゃんも、みんながついている。》
つまりここで、「私」「妻」「花ちゃん」「チャーちゃん」「ペチャ」「ジジ」という存在が共働して、一つの思考体となって、花ちゃんの現状に対する思考を成立させていると言える。ただ、この思考体は常に同一性をもったまとまりとして存在しているのではなく、切迫した「花ちゃんの現状」に対して成立し、顕れているものと考えられる。《キャウ!》という《絶叫みたいな激しい声》は、この思考体の連結-凝集としてあらわれたのではないか。
そもそも、花ちゃんという存在は、はじめからチャーちゃんと重ね合わせられている。チャーちゃんが存在しなければ、花ちゃんは、少なくとも「花ちゃん」として「私」と「妻」との間に現れることはなかった。それは、花ちゃんがチャーちゃんの代替だということではなく、花ちゃんが花ちゃんとしてあるために、あらかじめチャーちゃんという存在があり、チャーちゃんと花ちゃん(と、それを観測する「私」と「妻」)の干渉がある必要があった。
(とはいえ、この小説では、チャーちゃんは言葉を残さずただただ飛び散って、死んだまま踊っているだけで、「花ちゃん」と「チャーちゃん」との干渉を成立させているのは、猫の背後にいる「神さま」ということになっているが。)
《「チャーちゃん!」
と、そのたび妻は呼び間違った、呼び間違いは無意識による名指しか? そうではない。妻は呼び間違うことによって正しく呼んでいたと、旅立って横たわる花ちゃんを私はうっかり、
「チャーちゃん、」
と呼んだときにわかった、花ちゃんはチャーちゃんがいなくなって二年以上経っても悲しみが癒えない、心の空白が埋まらない夫婦の前にチャーちゃんとしてもあらわれた。私は花ちゃんの旅立ちに立ち会って思った。チャーちゃんに向けられていた悲しみが花ちゃんの横たわる姿を見て、悲しみが暖かみをともなった安堵にかわった。》
●十日か二週間と言われた花ちゃんの余命は、Lアスパラギナーゼの力によって一年七ヵ月にまで延びた。しかしここで「一年七ヵ月」とは、花ちゃんの死の時点から逆算されてはじめて出てくる時間で、夫婦と花ちゃんとの時間は《リアルに一日一日》だったとされる。《一日一日は、一日一日が二度繰り返されれば二日になるわけでなく、一週間で七日になるわけでなく、つねに一日一日だった》。
このリアルさは、過去にペチャとの体験があるからこそもたらされたものだろう。ペチャのリンパ腫がLアスパラギナーゼで良くなったとしても、それは一時的なものに過ぎない。それを充分知ってはいても、「私」と「妻」は、気持ちとしてはそれでまたずっと一緒にいられるという気になって喜んだ。しかしそんなことはなく、《落胆したというより突き落とされ》ることになる。つまり人はつねにある周期としての現状が持続する「未来」を自動的に想定してしまう。だから死は常に《寝耳に水》であり、《死別することの心の準備は死ぬ瞬間までできない》。「私」や「妻」は、ペチャやジジの死を通じてそれ知っていたからこそ、花ちゃんとの最後の日々を「一日一日」として、つまり「未来」を想定しない時間として過ごすことができた。だから、花ちゃんとの「一日一日」は、他の猫たちとの日々によってもたらされたと言える。
おそらく、次に引用する部分のような認識は、そのような経験によって導かれたものだと思われる。
《それなら現在が過去の原因になりうるか? 過去が現在の結果になりうるか? と考えたとしても時間がどっちからどっちへと流れているイメージは変わっていない、そうではなくてきっと、時間においてはいつも過去と現在が同時にある、だからそれは時間というものではないかもしれない。では未来は? それはきっとない、しかし未来を考えた途端に未来は生まれるが、それは姿を変えた現在と過去でしかない。》