●昨日から、つづく。「関係-未来/愛について」第二幕「愛について」
二幕もまた、映画上映後のアフタートークという形式。ここで上映された映画は「あたかもスクリーンに何も映っていなかったかのよう」で、それ故に「すばらしい」という形で表現される。実際に何も映写されていないのだし、そもそもスクリーンなどどこにもない。少なくとも「原作小説」は存在する一幕の映画「関係-未来」と異なり、二幕の映画「愛について」はその内容がそもそも存在しない。一幕と同じく、二人の俳優(監督/俳優)は、互いの役を入れ替え、せりふや仕草を入れ替えて、そもそも存在しない映画「愛について」について語り合い、そしてその主題である「愛」について語り合う。
映画「愛について」の主題は「愛」なのか、それともそこから一歩距離を置いた「愛について」なのか。卵があり、それを食べてもおなかのなかに卵があり続けるように、愛し合う二人がいて、別れたとしての「愛」そのものはどこかに残る(ある)のか。これらの語りは、一幕に比べて抽象度が高く、二人の俳優が互いに互いの役割やせりふを入れ替えるという形式に慣れてきたということもあり、そこには内容がなく、空虚な形式だけがあるかのようにも感じられてくる。語られる内容が後退し、形式が強く前に出てくるように感じられ、その内容に対する関心が薄れてきたその時に、「愛の対義語は憎悪ではなく無関心といわれるけど、その無関心を愛と呼べない理由があるだろうか」というせりふが俳優の口から出てくる。ここで、映画「愛について」について多くの言葉を発して語り合う二人の、映画「愛について」の内容について無関心が露わになるかのようだ。そして、その「無関心」こそが肯定されるかのような、ある「反転」が起るのように感じられる。
(一幕「関係-未来」の、フォーレ立川にある作品「関係-未来」において、作者の河口龍夫は、本当は2089年になど「無関心」であったのではないか、しかし、その「無関心」すら、その年を名指すことによって「愛と呼べない理由もない」なにものかになったのではないか、とか。)
一幕において、映画「関係-未来」は、存在しないとしても、存在しないことによってそれが「未来」と関係する可能性をかすかに漂わせるが、映画「愛について」はたんに不在であり、空っぽである。そしてその主題であるはずの「愛」もまた、「無関心」でもあってもよく、手首にあるホクロのようなものであってもよいといいうような、ほぼ内容のない、というか、なんでもいい何かであるような概念となる(一幕にあって、猫を拾って猫と暮らす「わたし」のような具体例はない)。
二幕の終盤は、映画「愛について」いう空っぽな器のなかに、ほぼ何でもありであるかのような「愛」というつかみどころのない何かを召還して、そこに包み込ませるための、まるで霊を召還しようとする降霊会のような様相を呈してくる。
照明は徐々に暗くなり、ほぼ真っ暗になったところで、一幕のはじめからある、テーブルの上の大きなコップに並々と注がれた水を、二人の俳優が飲み込んでゆく音が響くことになる。ここまで、要素としてはほぼ「言葉」によってつくられてきたこの演劇作品が、この場面でだけ、完全に言葉を失い、人の身体がただ、ごくごくと水を飲むという、その音と気配によって支配されることになる。
ここで、コップという器のなかにあったかなり多くの量の「水」は、俳優たちの胃という、別の器のなかに移動した。同様に、「愛」という、これといった内容をもたない、何でもありえるかのような抽象的で遍在する何かは、映画「愛について」という中身のまったくない器のなかに捉えられたといえるのか。あるいは、二人の俳優の役割とせりふの交換のようにして、「愛」と「水」との交換は成立したのか。降霊術は成功したといえるのか。
●この作品を、最近の演劇の傾向としての「移人称」的な作品だととらえると、きわめて素朴なものにみえてしまうかもしれない。しかし、おそらくそううではなく、ここで試みられているのは二つのものの「交換」を成立させようとすることなのではないかと思う。それは役柄Aと役柄Bの交換というだけではなく、「小説」と「演劇」との交換であり、「愛(愛という「言葉」)」と「水」との交換なのではないだろうか。あるいは、言葉を発する者としての人が、水を飲む身体としての人に変換され、それにより、「コップ」と「人」とが、水のための器として「交換」される、というような。人称の移行ではなく、さまざまな二項の交換こそが問題となっているように思った。