●『神々の沈黙』(ジュリアン・ジェインズ)を読んでいて、これは「原生的疎外」と「純粋疎外」の話とつながるのではないかとふと思って、『心的現象論序説』(吉本隆明)をパラパラみてみたのだけど、これは大変な難物なので、とてもパラパラみるようなものではなく、三章の「心的世界の動態化」の部分をちょっと腰を据えて読んでみた。しかし、一通り読んだだけでは概念とちゃんと把握できた気がしない(吉本は基本的に理系の人なのだとすごく感じる、文系的な問題設定を理系的な思考法で説こうとしているから、理系の人が読むと何をやっているのかよくわからなくて、文系の人が読むと何をいっているのかよくわからない、という感じになるのではないか)。とはいえ、非常に興味深く、「幽体離脱の芸術論」の今後の展開を考えてもとても重要なことが書かれているように思われ、この難物をそのうちにちゃんと解読しなければいけななあという、一つ重荷を背負ったような気持ちになった。
次の引用中にある「空間化度が、そのまま時間性として受容される」ということの意味を、現時点ではちゃんと把握できていない。
《心的な存在としての人間は、不可避的に関係の意識を〈多様化〉し、また〈遠隔化〉してゆく存在である。意志によって拒絶する以外に、心的世界をせばめてゆくことも、停止のままでいることもできない。そしてこのような心的世界の本質にたいして、末端を可能性としてたえず開放しているようにみえる感覚は聴覚と視覚だけであるために、このふたつの感官は、ほかの感官にたいしても、また動物の感官にたいしても特異な位相を示すようになったとかんがえることができる。》
《〈関係〉の概念は、かならずしも眼に〈視える〉ものだけをさすとはかぎらない。心的世界が関与しているかぎり視えない〈関係〉も含まれる。そして、この視えない〈関係〉を人間が了解しうるにいたったことには、聴覚がかなりな深さで加担しているようにおもわれる。天空や自然森林の奥から聴こえてくる音や叫びが、どんな対象から発せられたのか判らないとき、人間はその対象物を空想においてつくりあげた。そして〈視えない〉ものを〈視える〉ものにおきなおすすべを意識としてえたとき、人間の〈関係〉の世界は、急速に拡大し、多様になったとかんがえられる。聴覚と視覚の空間化度が、そのまま時間性として受容されることがありうるのは、このふたつの感官作用が、視えない〈関係〉概念を人間にみちびくのに、本質的に参加していたからである。》
《なぜならば、視えない対象を関係づける意識こそは〈関係づける〉という橋わたしを、そのまま時間構造として了解する意識だからである。このような意識に適合しうる感官は、聴覚と視覚、とくに聴覚である。もちろん、視覚もまた想像的視覚、あるいは技術的媒体によって、視えない対象を視ることができる。》
《これにたいし、嗅覚や味覚や触覚が、ある種の生物で、ある種の対象にたいしてのみ異常に遠隔化されうるとすれば、この動物が、そのばあい高度化された空間概念を所有しているからではない。むしろこのばあい動物は対象を〈近隔化〉して、じぶんの〈身体〉の外延に転化しているのだ。猫や犬がある摂取すべき対象にたいして、異常に鋭敏な、遠くからの嗅覚をもっているとすれば、その遠くにある対象は猫や犬にとって〈身体〉のとどく延長にほかならないといえる。そして、猫や犬の嗅覚は、べつの対象に対しては異常に鈍感でありうるのだ。ここでの感覚の空間化度は低く、等質性をもちえない。極端にいえば、対象ごとに異質な空間性をもっているだけである。》
《(…)あらゆる心的な〈異常〉現象は、けっして通常の意味の異常ではなく、人間の心的な領域が本来もっている可能性という意味しかもたない。したがって、真の意味で〈異常〉または〈病的〉とよびうる心的な現象はただつぎの条件をみたすばあいにかぎられる。ひとつは、その心的な現象(とその表象または行動)が〈身体〉の時間化度の外で了解されることである。したがって意志や判断的理性によっては統御されないこと、そのため自己体験としては外から強要されているとしか感じられないことである。もうひとつは、等質的な時-空性のなかでの異質的な時-空性あるいは、異質的な時-空性のなかでなかでの等質的な時-空性としてその心的な現象(その表象と行動)が存在することである。》