●昨日は、立教大でステム・メタフィジック研究会。課題は『ソウル・ハンターズ シベリア・ユカギールのアニミズムの人類学』(レーン・ウィラースレフ)。19時から24時まで立教大学で、その後、居酒屋に場所を移して翌朝の9時過ぎまで。気が付いたら14時間たっていた。帰りの、朝の東海道線が座れなくてちょっときつかった。参加者は、訳者である奥野克巳さん、清水高志さん、加藤学さん、柄沢祐輔さん、西垣有さん、大林寛さん、栗原優香さん、上妻世海さん、山本浩貴さん(なんとなく年齢順、正確じゃないかも)。
(内容については、そのうちになにかしらの形でアウトプットがあると思います。)
●『ソウル・ハンターズ』は、シベリアのユカギールの人たちのアニミズムについて書いてあるのだけど、この本ではアニミズムは決して「世界観」ではなく、実践的な行為を通じて現れるものだということが強調される。ユカギールの人たちは、歴史的には一度ソビエトという巨大な社会主義国家に取り込まれた(ユカギール語を流暢に話す人は六十歳以上に限られ、若い世代はロシア語しか話せない、と)。しかし、ソ連が崩壊して、経済危機に陥って貧しくなり、再び、狩猟を中心とした自給自足に近い生活を余儀なくされることで、アニミズムが顕在化したのだという。そのような狩猟という「実践」、あるいは狩猟を中心とする生活という「世界のなかでのあり様」が、非人間のなかに人格を産みだすのであって、アニミズム的世界観(隠喩的構造)が彼らのなかに根付いているから、それが精霊を生むのではない。アニミズム(動物やモノの人格性)は、狩猟の最中のような、綿密で実践的な没入が生じる特定の文脈(状況下)において現れるものだ、と。
以下の引用で「ハズィアイン」とは、非常にざっくりとした精霊の総称のようなもの(彼らは、実践と切り離された「精霊に関する神話体系」を持っていないので、通常はざっくりした匿名的なものとして精霊を捉えている。)
《(…)どこに精霊がいるのかと問うならば、答えは「人々の頭の中」ではなく「世界のそこ」、あるいはより正確に言えば人々の活動の関係的な文脈の中にいるということになるだろう。その意味では、精霊は完全に自律的な存在としては考えられていない。なぜなら精霊は、人間主体によって利用されたり、認識されたりするやり方に応じて左右される状況のもとに立ち現われるからだ。だが精霊は完全に非自律的でもない。なぜならそれらがまさに立ち現われるとき、例えば「没頭した行為」がうまくいかないときや夢のなかなどでは、ハズィアイン(誰でもあり誰でもないもの)としての通常の匿名性から浮かび上がって、統合性と固有の属性を備えたそれ自体=人格となり、「本質」あるいは「それ自身であること(オウンネス)」を現す。したがって精霊は世界のうちに「見出される」ものでもあり、世界との活発な交流のなかで人々によって「つくられる」ものでもある。》
ここで、没頭した行為が上手くいかないときに精霊が「それ自身であること」として姿を現すというのは、例えば、ハンマーが壊れた時に、犬小屋をつくるという一連の行為の道具関連のなかからハンマーという「対象」が姿を現す、というようなこととまったく同じだといえる。犬小屋づくりが滞りなく進んでいる時、様々な道具が雑多に入っている用具箱の中で「ハンマー」のみが特に意識されないのと同様に(意識されているのは「犬小屋を作る」という目的である)、狩猟が上手くいっている時に精霊は、世界の様々な連関のなかに匿名的に遍在するハズィアインとしてある。しかし、何か問題があった時に、文脈という地のなかから対象性(人格性)をもった固有の精霊が、そのオウンネスが、浮かび上がってくる(たとえば、ナントカ川のハズィアインが、犬を殺したあの男に対して怒っている、など)。精霊(非人間の人格性)は、人々による狩猟という目的をもった行為によって生み出されるものであると同時に、世界の(森のなかの)生物や非生物からなるものたちの複雑な連関のなかから、ある場面では自ずと「それ自身」として浮かび上がってくるものでもある。
●ユカギールの狩猟は、ミメーシス(模倣)をその基本的な方法とする。狩猟者は、動物の姿を真似ることで、動物を誘い出す。しかし、動物に成り切ってしまってはいけない。それは「動物でもなく、動物でなくもない」ものと成ることでなければならない。この違いは、動物を「性的に誘惑すること」と「本当に愛してしまう」ことの違いとして表現される。動物を本当に愛してしまうと(または、動物のアイビ---霊魂---から本当に愛されてしまうと)、その人は死に、人間としての輪廻から離れ、動物の輪廻に組み込まれてしまう(人間であることから離脱したまま元に戻れず、しかし動物と成り切ることもできない、中間で孤独に彷徨う「もじゃもじゃ人間」も存在する)。だから、狩猟者は人間から遠ざかって動物に近づく(人間の「におい」を消し、狩猟中は「言葉」を話さない)と同時に、捕食者としての意志を維持し、人間へと戻って来られる再帰的な通路を残しておく必要がある。狩猟者は、獲物への愛(または、獲物からの愛)を、ほどほどに保っておく技芸が必要とされる。狩猟者は、どっちつかずの二重のパースペクティヴを維持し、操作しなければならない。
狩猟の実践において、誘惑する狩猟者と誘惑される動物との間には、「互酬的なパースペクティブの鏡像」のような関係が現れる。獲物(たとえばエルク)は、狩猟者の模倣行為のなかに、自らの身体を見て、それに誘われて近寄ってくる(それを撃つ)。一方、狩猟者は、自らの模倣行為をまねる(模倣に反応する)エルクのふるまいのなかに、自らの身体の鏡像を見る。つまり「真似をする自分」を真似るエルクを鏡として、自己を見る。このとき、あたかも自分がエルクであるかのように、エルクのなかに自分を見ることになる。このことによって、人はエルクのなかに「人格」があることを否定できなくなる。
ここでは、狩猟者がエルクの鏡となり、エルクが狩猟者の鏡となるという風に、互いが互いの鏡像となっている。ウィラースレフは、ラカン鏡像段階という概念を持ち出してくるのだけど、これがラカン「鏡」と異なるのは、それが外から与えられるのではなく、「真似る」という行為を経なければ「鏡」が発生しないという点だろうと思う。人とエルクとがただ対峙するだけでは、互いが互いの鏡となることはない。人が狩猟という目的をもち、そのためにエルクを模倣することによって、まず、人がエルクの鏡となるという出来事がある。そして、鏡となった人にエルクが反応することによって、エルクが人にとっての鏡にもなる。もし仮に、ここで「真似る」という行為が成功しなければ(エルクが模倣に反応しなければ)、「鏡」は発生しない。ならば、人が、エルクのなかに自分を見ることもない。
アニミズムが、世界観でも隠喩(擬人化)的体系でもなく、狩猟という実践的な行為のなかから生じてくるものだということが、このことからも言える。鏡が先にあるのではなく、他者(他種)を「真似る」というミメーシスの能力が、そして真似るという行為の成功が、結果として「鏡」を発生させるのだという点が興味深い。真似るという能力(行為)が鏡を発生させ、鏡の効果により、他者(他種)のなかに自己が見出される。つまり「私(アイデンティティ)」と、「私ではない(ミメーシスの能力・模倣という行為)」の分裂が、他者(他種)の反応を触発し、その反応によって「私、ではない、のではない(鏡)」という第三項を発生させ、「私」と「私ではない」を統合させる(パースペクティヴの二重化)。そしてこの、他者(他種)を媒介とすることで発生する第三項としての「鏡」の効果が、「私はエルクではないが、エルクでないわけでもない」と「エルクは人間ではないが、人間でないわけでもない」とを交錯させる。
私が、他者(他種)を真似ることによって、その他者(他種)の鏡となり、他者(他種)の鏡となることの成功によって、他者(他種)が私の鏡となる。鏡にはあらかじめ他者(他種・非人間)の反応が織り込まれているからこそ(つまり、ミメーシスの能力は他種に対しても有効であるからこそ)、そこに「互酬的なパースペクティブの鏡像」が生じる。
(勿論、ここでミメーシスの能力は私=人間の側にだけあるわけではない。ミメーシスの起点が非人間であることも---例えば森のなかには---ありふれているだろう。)
●鏡のなかに既に他者(他種)の反応が織り込まれているからこそ、ユカギールの人たちは、自分の身体の諸部分もまた他者(複数の他者のアイビが宿ったもの)として感じている。唇が震えることで、もうすぐ食べ物(獲物)がやってくることを獲物のアイビが知らせているとか、右脚のアイビが足を動かなくして狩りの邪魔をするとか、身体の一部が他者(他種)として何かを主張したりメッセージを伝えたりする。このことと、彼らのミメーシスの「不完全さ」とは関係があるのではないか。
《エルクをまねていたスピリンドン爺さんを覚えているだろうか。まことに彼は、人間の顔、二本の脚、銃を持った、変な「エルク」であった。彼のまねは決して完全な生き写しではなく、ある点では両者の類似性よりも目立つほどに両者の間にある差異はとても顕著であった。》
ウィラースレフは、その理由として、同一性だけでなく「差異」を担保していなければ「我に返る(再帰性を担保する)」ことが出来なくなってしまう(真似ではなく変身になってしまう)からだと書いている。勿論、そういう意味もあるのだろうが、同時に、彼らは身体全体として滑らかに、統一的に同じである(類似している)という必要性を、そもそも感じていないという部分もあるのではないか。彼らの鏡の表面は滑らかではなく穴だらけであり、故に身体への再帰的認識(自己像)も不連続で、そしてこの世界において(狩猟という実践において)ミメーシスはそれでも機能するのではないか。身体そのものがブリコラージュ的であるから、ミメーシスもブリコラージュ的でも機能し、「互酬的なパースペクティブ」が成り立つのも、鏡像というものが、そもそもそういうものだからなのではないか。鏡像は、そっくり同じである必要はなく、部分的に類似していたり、なんとなくそれっぽかったりすれば機能するのではないか。ミメーシスを機能させるためには類似があればよくて、それが写実である必要はない。
この点においても、「統一的な像」を先取りするラカン的な鏡と、真似るという行為が他者(他種)によって受け入れられるという実践を通じて機能するアニミズム的な鏡とは、かなり違うのではないかという気がする。