●山手線に乗っていたら、今まで紙の広告が掲示してあった、窓と天井との間のスペースに広告がなく、ディスプレイが三つ並んで配置してあった。しかも、その三つのディスプレイに映し出される映像が、まるでトリプティクのように、常に連動していた。三つのディスプレイに、それぞれ別の商品の広告が映写されるのではなく、一つの商品の広告が、三つのディスプレイを使って展開されている。たとえば、三つのディスプレイを横長のひとつのフレームとして使っていたり、両端の二つに同じ映像が流され、真ん中の一つを挟む形になったり、三つのフレームの間に時間的に微妙なずれをつくっていたり、とにかくいろんなバリエーションで三つのフレームを連動させていた。たんに、紙の広告を動画に変えるだけでなく、マルチスクリーンみたいに連動させるのかとちょっと感心した。
一方で、VR的な没入型の映像があるが、しかし、渋谷のスクランブル交差点などが顕著な例なのだけど、普通に都市を歩くという経験がそれ自体でマルチスクリーン的な経験なので、(七十年代に一時流行ったけど一般的にはあまり受け入れられなかった)分散的なマルチスクリーン的映像が、もっとスケールの小さいレベルの空間でも普通に受け入れられるようになるのかもしれないと、渋谷から品川までのごく短い間乗っただけだけど、思った。
(三つ並んだ画面にいきなり、全身白塗り、坊主頭、裸でうごめく男たちの集団がの映像が映って、それは世田谷での山海塾の公演の広告だったのだが、おお、ハイテクと山海塾が融合していると思ったのだった。)
●今更ながら『アウトレイジ』(北野武)を初めて観たけど、なんか『ファイナル・デスティネーション』とか『スクリーム』とかみたいだなと思った。
最初に、人がいっぱい出てきて、それが少しずついなくなって、誰が最後まで生き残るのか分からない、というパターンの物語の作り方はわりとありふれていて、うまくやればそれなりも面白くなることは分かっている。それでも、うまくやるのは簡単なことではないし、かなりうまくやっているとは思うけど、そのパターンか、と思った時点でどうしてもちょっと冷めてみてしまう。
ある複雑な関係=状況があって、そのなかでちょっとした不均衡が生じ、ビリヤードのある玉が別の玉のぶつかり、そのちょっとした衝突が波紋のように広がり、次々と玉突き状態になってゆく(状況が、先が読めない感じで次々変化していく)。その様を高みからみて、操作しているかのような北村総一朗もまた、実はビリヤードの玉の一つでしかない。これは、『スクリーム』のような、ある状況のなかで「誰が生き残るかゲーム」であると同時に、特定の「犯人」のいない、九十年代に流行った群像劇の構造(代表的な例としてはエドワード・ヤンロバート・アルトマンなど)でもある。北村総一朗の存在があるので、完全に中心を欠いた分散的な構造というわけでもなく、その分わかりやすくなっているけど(ある程度分散的でありながらも、中枢的なものも効いてもいて、相互で引っ張り合っているという構造がやや新しいとは言えるかも)。初期の『3-4x10月』や『ソナチネ』の感触を、そのような既にあるパターンに上手くのっけた感じ。
(ビートたけしが早々に死んでしまうわけにはいかないので、自分を、どのタイミングでどう殺すのかはけっこう難しい問題だったと思うけど、それもうまく処理していると思った。)
細部で、面白いイメージがあったとしても(冒頭の長回しのカットなど、ゴダールみたいですごくかっこいい)、そういうパターンの上にのっかってやっているという時点で、ある種、安全策の上でやっている感じで、たとえば、椎名桔平が死ぬ場面など、かなり面白いイメージだと思うのだけど、それがイメージそのものとして際だってこない感じがしてしまった。キャスティングも、初期の作品と比べると、そこまでピタッと決まっているとは思えなかった。
でもこれは、エンターテイメントとしてはおそらく正しい方向なのだろう。北野武伊丹十三化、という感じがした。
(非人間的な暴力描写に満ち、あらゆる登場人物が平気で人を裏切る---殺しもする---信用ならない存在であるなかで、ただ、ビートたけし椎名桔平の「関係」だけはなんとなく信用できそう---裏切らなさそう---に描かれていて、そこにかろうじて観客が好感をもつことができる余地があるという点で、観客の共感ポイントがちゃんと用意されているという意味でも、エンターテイメント的である。)