●『HMDによる構成的空間を舞台とした「三人称的自己」の顕在化』で、小鷹研理は、自己のもつ主体感(agency)と身体の所有感(ownership)という二項に対し、第三の項として「deownership」という概念を提出している。
https://confit.atlas.jp/guide/event-img/jsai2018/3D1-OS-7a-04/public/pdf?type=in
agencyとは、あるイベントに対して自己が主体的にかかわっているという感覚であり、これは、自己の運動感覚とイベントとの「時間的同期」によって、人工的に構成された空間においても容易につくりだすことができる。たとえば《くしゃみと同時に遠方のガラスが偶然壊れるような極端な状況に際しても、「まるで自分がガラスを割ってしまった」ような感覚が得られる》であろう。時間的同期が一定の遅延の範囲内にあれば、距離がどれほど離れていようとも、主体感の投射は成立してしまう。
それに対し、ownershipとは、「それ」が自分の身体そのものであると感じられる感覚のことである。ownershipの投射(例えば、ラバーハンドイリュージョンなど)は、agencyとは異なり融通がきかない。ownershipの投射が可能であるためには、(1)対象イメージが身体と(向きも含め)同型的な外観をしており。(2)身体の周囲(身体近傍空間)に呈示されていることが必要となる。身体近傍空間の範囲は、手であれば10?程度、身体全体(フルボディイリュージョン)であれば1〜2m程度であるという。
ownershipの投射は、agencyの投射に比べ自由度が低いかわりに、その体験者にきわめて生々しい感覚を生じさせる(直接性)。例えば、ラバーハンドイリュージョンで投射が成立している時、不意にゴムの手に刃物を突き刺そうとすると、強い反射的な回避反応があらわれる。
このように対照的なagencyとownershipという二項に対して、第三項としてdeownershipを考える。これは「ownership」に、反対、離脱、下降などの意味を付加する接頭語「de」を加えた造語である、と。つまり、ownershipから、空間的、心理的に離脱すること、あるいは、ownershipを保持した身体的自己を「反対側から眺める」感覚、ownershipから視点を切り離して下降させていくイメージであるという。要するに、幽体離脱的な感覚を指す。
幽体離脱とは、「見る自己」と「身体的自己」との分離である。この時、「見る自己」にとって、「身体的自己」に生じる出来事は、どの程度の「直接性」をもつと言えるのだろうか。この時の感覚の直接性はおそらく、投射されたownershipにおいて生じる直接性ほどの強さは持たないと思われる。しかし、投射されたagency(例えばゲームプレイヤーにとってのマリオ)と同程度の直接性と言っていいのだろうか。ここで、プレイヤーとアバターとの間に結ばれる直接性と、見る自己と身体的自己との間に結ばれる直接性とでは、リアリティーの差異が存在するように思われると小鷹は書いている。
このような、それぞれ異なる三項の関係を示すことによって小鷹は、gencyの投射(主体感の身体からの分離・拡張)とownershipの投射(所有感の身体からの分離・別の身体への同一化)と、deownership体験(幽体離脱)との、質的な異なりを明確にしている。そして、deownershipが、agencyの投射やownershipの投射とは違って、「重力(特に、仰向けに横たわった状態での重力反転)」と強く関係しているであろうと述べられる。
幽体離脱が、重力加速度を検知する前庭系の機能が何らかの原因で失調したことの結果であるという考え方が発表されている》。《筆者の研究グループは、現段階で、「重力反転錯覚が幽体離脱を誘発するうえでの基底的な前提条件を構成する」という仮説を採用している》。
これは、主体感の拡張と、身体所有感の移行と、幽体離脱(見る自己と身体的自己との分離)という、三つの違いが明確にされていることによって、この三者の関係を考えることが出来るようになるという点で、とても重要なことであると思われる。特に、身体所有感の移行と幽体離脱との違いは、ぼく自身もしばしば混同してしまいがちなので。
●ここで荒川+ギンズが思い出されるのだけど、荒川+ギンズにおいては、重力反転だけでなく、地面の傾斜という形で作用する重力が同時に重要な問題になっている。重力反転によってdeownershipが意識されているとすれば、地面の傾きは、身体の位置の移動の度に、地面の傾きに対する正中線のその都度、その都度での再定立が強いられ、その連続によって、新たな正中線の生成がその「直前のわたし(のownership)」から常にズレ出ていくことが意識されているということだろうか。行為=反応を自ずと生成させてしまう働きと、その働きが成立している場を「自己の身体」として所有している感覚にズレが生じる。正中線の再定立に対して、ownershipの移行が追いつかないことによって、「背後からわたしを追う」、あるいは「わたしが背後からやってくる」感覚が生じるということか。
●かなり暗くて、長い続く直線的な夜道を、速足で歩いていると、早く移動しているという身体の感覚と、視覚的な停滞感との間に乖離が生じて、「見る自己」と「動いている自己」との分離が起ることがある。この場合、暗闇で自分の身体も隠されているので、視点と運動感覚のみがあって、身体そのものが失われたような、奇妙な浮遊感に陥ることがある。風景も暗くてぼんやりしているので、確かなものとして固定されている世界(と身体との関係)が液状化してしまったような感じで、これはかなりヤバい。立ち止って、足元の地面を確かめたり、近くの塀に触れてみたりしないと、ヤバいところにいってしまいそうになる。