アブダクションは、常に誤謬であり得る可能性をもつ推論過程である。それは欠陥ではなく、「誤謬であり得る」可能性こそが、その推論の過程において言及されるものの外側(その「地」)を同時に示すことを可能にする。そしてそれはフィクションの意味につながる。以下の引用は、『来るべき思想史』(清水高志)、第八章「想像力と三つの倫理」より。
《(…)誤謬をもちうる仮説をどう扱うかについて、ジェイムズはパースから学んだが、彼はプラグマティズムを、実質的に「確証」のプロセスに還元されるべきものとして構想していた。これに対し、パースの発想では、第一次性であれ、具体的な事件の解釈として見出される第三次性であれ、その外延として言外に示されるもの(共示connotaionの対象)のほうが、はるかに重要性をもっていた。対象そのものを超えて「言外に示される」もの。ある意味でアナロジー的な能力を通じて理解されるものが、私たちの世界像の基盤をなしているという考えこそが、パースにおいてもっとも独創的な発想であった。》
《彼の言うアブダクションは、その意味で確証の過程でもあるが、懐疑の過程でもあった。いかにして人間は正しく懐疑しうるのかという問いを、帰納的な意味では確定されない仮説というものをめぐって考察し、彼はそれを最も形式的に問い詰めたのである。こうした「懐疑の形式」は、やや違うかたちではあるが、宗教や文学、芸術のうちにも見出される。たとえば小林(秀雄)が、彼の逆説を追求することによって探り当てたのも、まさしくこのような「懐疑の形式」である。》
《われわれが確証不能なものとしての世界を、仮説を通じてのみ理解しているというのであれば、主知的なはからいを超えたところにあるものに、いかに処していくかが重要な問題となる。仮説や想像的なもの(imaginaire)のうちに、あるいは世界そのもののうちに、それ自体としては不変な、何らかの「懐疑の形式」を見出していくことこそが、そこでは求められることになる。》
《私たちが生きるということは、こうした懐疑に片足をかけて立っているということであり、その意味では人が夢の中でも夢への自覚をもちうるように、純然たる「架空のもの」である文学のうちにも、懐疑者は登場しうる。小林がドストエフスキイの作中人物のうちに見たのもそうした懐疑者である。神話や古伝説中の人物が、慟哭とともに自らの人生を懐疑するとき、また物語の語り手がその嘆きにききいり、それをそのまま伝えるとき、そこには懐疑が反復され、一つの形式へと純化されるのだ。》
●フィクションが、現実(=仮説)に対する懐疑の形式として生まれるということは、それが現実(仮説)のうちに---現実を否定的な媒介として---姿をあらわすものであるということだ。現実に生まれる「心にかなはぬすぢ」が懐疑を要請する。そして、フィクションにおける「懐疑の形式」は、「遡及的なベクトル(バーチャルなものがアクチュアル化されるのとは逆の、アクチュアルなものがバーチャル化されるというベクトル)」をもっている、と言われている。フィクションは、遡及によって可能になる「懐疑の形式」としてある、と。
《詩人たちや文学者は、ある種の受動性、「心にかなはぬすぢ」こそが、精神の自己形成にとって必要であると強調するが、これは何らかの事件に処する精神が、遡及的に自らを形成するということをさまざまに表現したものだ。彼らはいずれも、通常考えられる世界に対して自我が働きかけるのとは、逆のベクトルを見出す必要性を説いている。》
《「不思議なのは、事物が在るということではなく、それがこのようにあって、他のようではないということである」(…)ヴァレリーの発言の趣旨は明白である。世界の存在以前に、世界はつねに変容し、そこに現われるあらゆる形象はさまざまな「結びつき」をもつのであるが、われわれにはそのごく有限のあり方だけが示されているにすぎない。そうした事実にこそ驚くべきであり、またその有限さを懐疑すべきだといいたいのだ。》
●現実からの遡及的なベクトルによって見出される、ヴァーチャルなものは、アブダクションによる推論における誤謬(と、その修正)の可能性と同様に、存在の「地」としてその下にひろがっていると言える。
ヴァーチャルな次元にあるそのような複数の選択肢に、水平的な結びつきを与えるには事物(事件)=媒体(medium)が必要であり、それこそが新たなものの創発としてのポイエーシスを可能にする。
ヴァレリーはむしろ、詩的想像力の機能を本来的に働かせることによってこそ、「数多くの連想の結合の中心」である媒体(medium)、つまり事物を、「発見」することができるのだと考える。こうした詩的想像力による事物の発見---その質料や法則の発見---のほうが、生存という目的や、ありきたりな用途に役立てるために事物を見ることより、はるかに驚きに満ちている。この驚きに立ってみれば、いわゆる現実の事物は、むしろ有限のもの、制約されたものしか捉えられない。こうした価値の転倒、あるいは懐疑が、ここでは語られているのである。》
《芸術家たちは世界についての、彼ら一人ひとりのためだけの科学を作り上げ、世界の複雑な連環をそこに見出す。それと引きかえに、往々にして彼らは現実の世界に対して傍観者になってしまう。》
トルストイの出奔という「事件」をめぐって、人生がいかに成就されるかについて、(正宗)白鳥と小林の間でまったく視点が逆になったことも、こうしたベクトルの相違を典型的に示している。これはピエール・レヴィのヴァーチャル論が遡及的な構造をもっていたことと通じているが、遡及的思考において特徴的なのは、遡及をうながす何らかの「事件」を媒体(medium)として、遡及したところにある複数の選択肢が、互いに水平に結びつけられるということである。》
●現実を否定的媒介としてなされる、ヴァーチャルな次元にあるものたちの水平的な結びつき。このようにしてポイエーシスされたフィクションは、現実(社会的に有用な動機や目的)に解消しがたいもの(心)を生む(あるいは、そこから生まれる)。小林秀雄はそれを「心が行為のうちに解消し難い」と表現する。以下のみ、第七章「架空のもの」について、からの引用。
《いったいなぜ、人は心が動かされるときに、「心にこめがたくて」、それを語らずにおられないのだろうか。それはおそらく、個人の実生活が強いられた目的や動機と離れたものをそれが物語っているということを、知らず知らずのうちに感じとっているためではないだろうか。それはたとえば自らに体験されたものであっても、個人を超えた匿名的な体験であって、ランボオのいう「別の生活」なのだ。その意味でそれは、「まこと」の経験であっても「そらごと」であるし、「そらごと」であってもいっこうに「そらごと」らしくない姿をしている。》
●フィクションが、ヴァーチャルな次元からやってくる「心が行為のうちに解消し難い」(個人を超えた)匿名的な体験であるということを、交換とネットワークと恩寵の関係をアナロジーとして考えることもできる。
《交換は、もともと相互利益を目的として行われるのではなく、贈り物(gift)の循環そのものを目的として行われるものなのだ。サッカーやラグビーのボールが「火のついた炭」のごくプレイヤーの間を循環するように、贈り物(gift)は贈与や交換にあずかるものすべての間を循環し、そしてそれに関係するもののネットワークを複雑に形成していく。あらゆる贈り物(gift)は、元来セールが語る意味での準=客体(quasi-objet)なのだ。そして本当に重要な贈り物(gift)とは、むしろそれによって生み出されるネットワークの複雑さ、柔軟さであり、つまり共同体社会そのものなのである。》
《したがって与えられたものを一方的に保持することは、ネットワークの形成を阻害し、贈り物(gift)そのものを有害なものにしてしまう。》
《(…)対象としての物品やそれによって与えられる富が交換の目的なのではなく、徐々に形成されるが、当初は見えず、把握されない、ネットワークそのものが目的であることを表しており、レヴィが言う意味でのヴァーチャル化こそが目的であることを示している。こうした贈与の運動は、与えられたものを蓄積するのではなく、それを互いに手離していく行為を前提としており、そしてそれによって真の贈り物(gift)が、何らかの贈与者ではない第三者から、ネットワークそのものから与えられることを前提としている。それは、恩寵を前提としている。》
●富を得ることではなく、得たものを手離すことによってネットワークを形成し、ネットワークそれ自身から、恩寵として真のギフトが与えられること。これは、現実(生活)を懐疑すること、「心にかなはぬすぢ」による受動性を媒介とすることによって、遡及的にヴァーチャルな水平的に結びつきを取り出し、ヴァーチャルな次元から「そらごと」としての「まこと」を取りだそうとすることと、アナロジー的に重ねることが可能だろうと思う。