●『黒衣の刺客』(ホウ・シャオシェン)をhuluで観た。ホウ・シャオシェンとリー・ピンビンによるマニエリスムの極致みたいな映画で、前に一度、DVDを借りてきたことがあるのだけど、その時は、十分か二十分くらい観て、ぼくはこれにはつきあえないと思って観るのをやめてしまったのだけど、今回は最後まですんなり、面白く観られた。
最初の一時間くらいは、物語がさっぱり分からないというか、人物同士の関係がよく分からないし、何が起こっているのか、誰が誰かもよく分からないのだけど、最後まで観ていると、なんとなく分かるようになる。しかし、物語の概要が分かると、そこに別に大したことが語られているというわけでもないということも分かる。原作は中国の古典みたいだけど、まるで昔の大映ドラマ(と言っても通じる人は少ないかもしれないけど)みたいな話だ。
ホウ・シャオシェンは、『ミレニアム・マンボ』くらいまでは(「現代」の作品として)面白く観られたのだけど、『百年恋歌』(映画館で観た)で、これはたしかに「すごい(奇跡的にすごい)」のだけど、この「すごさ」を一体「面白い」と言えるのだろうかという疑問が湧き、それで醒めてしまった感じがある。『ホウ・シャオシェンのレッド・バルーン』も、DVDは借りてきたけど最後までは観ていないと思う。
ではなぜ、今回の『黒衣の刺客』は面白く観られたのだろうか。この映画は、一方で美的な洗練の極致のようなものでありつつ、もう一方で、妙に軽薄な(B級娯楽作みたいな)ケレンのような感覚が随所に挟み込まれていて(謎の「仮面の刺客」みたいな人物も出てくるし)、その落差というか、ギャップが新鮮だったということがひとつあると思う。一方に、驚くべく超絶技巧があり、もう一方に、とるに足らないように思われる物語があり、その間を、ケレン味のある遊び心が繋いでいるという感じといえばいいのか。
それと、ごくたまに不意をつくようにあらわれるアクション場面がかっこよかったということは大きいと思う。さすがホウ・シャオシェンはアクションを撮ってもかっこいい。
この映画は、どのカットからも、膨大な時間や労力や才能が惜しみなくつぎ込まれていることがありありと伝わってくるような厚みが感じられるのだが、同時に、そこまで丹精を込めた労力を費やすモチベーションがどこにあるのかが、映画を観てもあまりよく分からないというところが、この映画の最大の謎としてある。信じ難くすごいのだけど、何がやりたいのか、そのすごさがどこに向かっているのかはよく分からない、というか。
もはやホウ・シャオシェンは、通常の意味での「作家」ではないのかもしれない。工芸的で職人的な名人あるいは達人であり、語るべき物語やモチーフ、形式的な実験があるのではなく、そのモチベーションは、ひたすら自らの技巧を磨き上げることにあるのかもしれない。ただその対象が、伝統的な工芸品ではなく、映画という、現代的なテクノロジーや資本をも巻き込んだメディウムであるということなのかもしれない。
『百年恋歌』には、偽装されたナチュラリズムというか、実はものすごく技巧的なのに、あたかも「自然に撮れてしまった」かのように見せている感じがあって、そこにちょっと嫌な感じをもってしまったのかもしれないのだけど、『黒衣の刺客』は、(コスチュームプレイだということもあるのだろうが)どのカットもあからさまに「作り込まれている」ことが示されていて、それが隠されていない。
たとえ、「作家」としてのモチベーションがみえてこなくて、「作品」としては不毛であるようにみえたとしても、『黒衣の刺客』が、誰も見た事のないようなすごいものであることに変わりはなく、そうである以上、今後もホウ・シャオシェンのつくるものを気にしないわけにはいかないのかなあと思った。
●少し時間を置いてもう一度観るべきかなとも思う。