●いまさらながらふと気づいたのだが、デジタルで絵を描いた場合、そうしようと思えば、制作過程のすべての段階を(ことなるバージョンとして)データとして残すことも可能ということになる。マティスは、1945年のマーク画廊での個展の時、完成した作品とならべて、その制作過程を撮影した写真を同時に展示し、その写真は今でものこっているわけだけど、そのような、不連続的で粗い「過程」ではなく、最初の一筆から最後の一筆まで、その順番どおりにすべて保存できる。そこには、作品の生成過程のすべて、逡巡や、停滞や、方向転換や修正のあり様までを、データで保存し、後からそれを再生することもできるということだ。
(これが、制作過程のすべてを映像として撮影していることと異なるのは、あらゆる瞬間の状態が、ただ再生可能であるだけでなく、オリジナルなデータとして残っているので、後から、途中のどの段階にでも戻れて、そこからやり直すこともできるということだ。そのデータがオープンにされていれば、描いた本人でなく、他の誰でもが、そのどの段階からでも、描き加えて、別のバージョンをつくることができる。)
通常、作品をつくる人でも、その製作過程のすべてを覚えているわけではないので、一度出来上がってしまえば、作品はそれをつくった作者にとっても「事後性」を帯びたものとしてしかとらえられない。おそらく、途中の段階の都合の悪いところをけっこう調子よく忘れていたりするだろうと思う。そしてこの(やってしまったことを)「忘れている」ということは、些細なことでも何か「新しいもの」が生まれるために、けっこう重要なことだと思う。
しかし、作品の制作過程、作品がこの世界に出来する因果的由来(来歴)のすべてが、完全に記録され、それを漏れなく遡行できるとしたら、それでも、作品を「事後性」(時間の不可逆性によって生まれる何か新たなもの)をもつものとして捉えることができるのだろうか。
確かに、「この瞬間に何かが決定的に変わった(生まれた)」という、その一筆を特定できるのかもしれない。それは、どんなに滑らかに連続的に進行してもなお刻みこまれる、不連続な飛躍(切断)のしるしと言えるかもしれない。そのような飛躍(切断)がある限り、事後性は確保されるのかもしれない。
しかし、そのようにして、作品から「秘密」と呼べるものの一切が失われたとしたら、それでも作品は、「作品」としてあり得るのだろうか。ここで秘密とは、作品をつくっている者に対する、作品からの「秘密」のことだが。作者に対して作品が秘密をもたなくなっても(完全にオープンになっても)、作者は作品をつくれるのだろうか。
ぼくなんかが二十年以上も考えつづけてきた「絵画」というものの意味が(それはやはりある種の物質性に依存しているのかもしれない)、塵のようにふきとんでしまうという可能性すらある。デジタルは恐ろしい。