●引用、メモ。『正統とは何か』(G.K.チェスタトン)、「四 おとぎの国の倫理学」より。
●フィクション、驚嘆、魔法、反復。
《おとぎ話の魔法使いは言う---「角笛を吹けば怪物の城は落ちる。」その声音は科学者とはまるでちがう。この原因からこの結果が生まれることは決まっているというような言いかたはしない。今までも魔法使いは、もう何度も英雄に同じことを教えてきたにちがいない。そして城が落ちるのを何度でもみてきたにちがいない。しかし彼女は、だからといって驚異の念を失いはしなかったし、正気の頭を失ったりしなかった。変に頭の中をかき回して、角笛と落城との間に必然的な精神的連関があるなどと、変な結論を引き出したりはしなかった。》
《おとぎ話でりんごが金なのは、リンゴが赤いのをはじめて発見した瞬間の驚きを思い出させるためなのだ。川にブドウ酒が流れているのは、驚異の一瞬、川に水が流れていることをみずみずしく再発見させるためなのだ。》
《そのナゾナゾはこうである---「最初の蛙は何と言ったか。」答えはこうだ---「ああ、神様。あなたは僕を跳びはねさせました。」私の言わんとすることを、これほど端的に言いつくした言葉はない。神は蛙を跳びはねるものとして創られた。蛙はこの事実の不思議にびっくりして跳びはねたのである。けれども蛙はただびっくりしただけではない。歓びのあまり跳びはねたのである。》
《子供はいつでも「もう一度やろう」と言う。大人がそれに付き合っていたら息もたえだえになってしまう。大人は歓喜して繰り返すほどの力を持たないからである。しかし神はおそらく、どこまでも歓喜して繰り返す力をもっている。きっと神様は太陽に向かって言っておられるにちがいない---「もう一度やろう。」そして毎晩月に向かって「もう一度やろう」と言っておられるにちがいない。ヒナ菊がどれもこれもみなそっくりに同じなのは、必然の自動装置のせいではないかもしれぬ。》
《繰り返しは単なるオートメーションの繰り返しではなく、まさに誰かの決意によって何百万年も繰り返し続けているのかもわからない。だから、それはいついかなる瞬間に止まるかもわからない。人間は、世代から世代へと、次から次に地上に存在するかもしれないが、しかし一つ一つの誕生は、今度こそまさしく人間最後の登場であるかもしれないのだ。》
●潜在性とその稀な実現=驚嘆。
《木の葉が緑であるのは、それ以外の色では絶対にありえなかったからであるというのだ。ところがおとぎの国の哲学に従えば、木の葉は絶対に真紅でもありえたのであり、だからこそ、木の葉の緑であることが無情の歓びとなるのである。おとぎの国の哲学者の目から見れば、木の葉はいつでも、彼の目がそこに止まるその一瞬前までは真紅であったように見えるのだ。雪が白いのを喜ぶのは、それが黒でありえたかもしれぬという、まさにその厳密に合理的な理由のためである。あらゆる色彩には、単にそうでしかありないからそうであるのでなく、その色でなくてもよいのに特にその色になったという不適な力強さがある。庭のバラの紅い色は、単に決然としているばかりか劇的でさえある。》
《この本(『ロビンソン・クルーソー』)の中でいちばん感動的なところは、難破船から救い上げた品物のリストそのものだ。最大の詩は目録である。どんな小さな炊事道具も、あるいは海に沈んでいたかもしれぬことを思えば、かけがえのない極上の品となる。(…)単にバケツや本箱にかぎらない。すべての物が危機一髪難破を免れたことを思い出してみることだ。あらゆるものが、みな海の藻屑となるところを救われたのである。》
《偉人に「なりそこなった」偉人は多いというのもよく言われたことだった。しかし私には、どんな人間も「生まれそこなった」人間でありえたかもしれぬという事実のほうが、もっと手応えのある、もっと驚くべきことのように思われるのである。》