●ネットフリックスで『デビルマン』、五話まで観た。実は三度目の挑戦で、一度目、二度目は、二話、三話で挫折した。今回は五話までいったけど、もうこれ以上は無理という感じ。
湯浅政明作品に対するアレルギーがずっとあるのだが、『夜明け告げるルーの歌』がすばらしくて、湯浅作品をはじめて受け入れられたので、これを機にアレルギーを払拭しようと、『デビルマン』を観るにあたっては、違和感はできるかぎり飲み込んで、ひたすら肯定的な面だけを探そうという姿勢で臨んだのだ。けど、それでも、これはやはり飲み込めないなあ、となってしまった。この作品の、どこをどう面白がればいいのかをずっと探りながら観ていたのだが、それが見つからないうち、拒否感の方が勝ってしまった。
それなりにがんばって観ていたのだけど、四話で、少年が延々とラップで自分語りをする場面で、「これはないわ」と思ってしまい、五話で、家族の朝食の「かつおぶし」のぐだりで、「これはなに…」と思って、五話のラストで「悪魔にも愛がある」で、「薄っぺら…」となってしまった。
最初から、展開ががちゃがちゃで、エピソードが薄っぺらく、内容と演出とがぜんぜん合っていないとしか思えなかったのだけど、それらのことはおそらく「意図的」になされていて、その意図的につくられたちぐはぐな感じを、どうすれば肯定的に受け入れられるのだろうかと、できるだけ柔軟にと心がけてこちらのモードを様々にチューニングしながら観ていたつもりだったが、ダメだった。
たとえば、陸上界のスターである高校生の女の子が、彼女の裸を撮影しようと狙っているあきらかに胡散臭い雑誌記者(カメラマン)のスタジオに単身で乗り込んでいってしまうというのは、まあ、凡庸だけどわかりやすいトラップとして受け入れられる。でも、スタジオに向かう途中で雨に降られたからといって、スタジオにつくなり女の子が「シャワー貸して下さい」とかいっていきなり裸になって風呂に入ってしまうという展開はどうなのか。常識的に考えて、警戒心が無さすぎるのと同時に遠慮がなさすぎる(どういう「天然」なんだ、と)。この行動は、この女の子の優等性的なキャラにまったくそぐわない。それに、この行動が、優等生的なキャラである女の子の「別の側面」に光を当てるというわけでもない。たんに、物語の展開上の都合(液体状の悪魔が出てくる)でしかないし、もっといえば、「このへんで女の子の裸でも出しておくか」「この後、主人公が女の子を助ける時に、女の子が裸の方が絵になる」という程度の意味しか考えられない。
さらにいえば、この胡散臭い雑誌記者(カメラマン)は、かなりボロく貧しい感じの日本家屋に母親と二人暮らししている、うだつの上がらないキャラとして描かれているのに、広くてきれいで立派なスタジオを「自分のスタジオ」として使う(借りる)ことができているというのも、現実的ではないように感じる。こんな立派なスタジオを維持できるようなカメラマンなら、こんなせこい仕事はしないだろうという感じ。この男が契約している雑誌(出版社)が借りているスタジオと考えることもできるが、女の子を騙して撮った裸の写真が売りの雑誌を出しているような出版社に、それほどの経済的余裕があるとも思えない。
一事が万事、こういう感じで、細部の設定やエピソードがいちいちちぐはぐに感じられてしまうし、(どうしても「寄生獣」を連想し、比較してしまうのでなおさら)展開ががちゃがちゃで不細工な感じがしてしまう。それらは意図的なものとして、そういう「現実的なもっともらしさ」とは別のリアリティで成り立っている作品としてみようとその糸口を探るのだけど、少なくとも、ラップをやっている少年たちの描写などは、現代風俗を反映することが強く意識されているとしか思えないから、風俗的なものの反映を意識しているのに、その風俗の背景にあるリアリティが無視されているようにしか思わえなくなってしまう。
うーん、アレルギーを克服するのはとてもむつかしい。