●「いかれころ」(三国美千子)を読むと、中上健次を読み返したくなる。「いかれころ」は、一方で、82年当時の特定の土地の風俗を丁寧に描出している小説であると思うが、他方で、あきらかに「権力関係」を書こうともしているように思われる。それも、抽象的な権力関係(やその批判)ではなく、実在する特定の土地と不可分なかたちで現れているような権力関係だ。後者の意味で、この小説は中上健次に通じる。しかし、そのやり方は違うとも言える。
前に中上健次をまとめて読んだのは、(中上論をまとめて書きたいと思っていたのだけどいろいろな事情で実現しなかった)2010年から2011年くらいの頃だから、現時点ではもはやかなり記憶があやしく、すごく雑なことしか言えないのだけど、中上健次は、『枯木灘』で実現した神話と自然主義とが拮抗する世界を『地の果て、至上の時』で解体し(『枯木灘』の世界を解体させたのは「現実」であり、実際に地上げにより路地は消失して更地になった)、そこで解体された世界を、『千年の愉楽』でふたたび「語り」の力により想像的に回復させ、しかし「想像的に回復させる」という行為(物語を「語る」という行為)そのものを批判するように、その世界や語りを『奇蹟』でまた解体する、という、弁証法的とも言える動的な過程をたどっていると言える。
この過程をラカン的に説明することも可能で、現実界という地(まさに「土地」)の上で、象徴界想像界とが弁証法的に闘争しているのだが、その闘争は止揚に至らず、象徴界想像界も共に瓦解してしまう、そして、「父の名」が消えて、寄る辺なく果てもない組み換え可能性と、それぞれに固有のララングだけが残った、みたいになる(すっごい雑です、念のため)。しかしそのように(ポストモダン的に)考えると、その先はもうなくて、実際、中上健次はその先をみつけられないまま、若くして亡くなってしまったということになってしまう。
でも、今だったら、そのようなポストモダン的な読み方とは根本的に違う読み方、別の可能性を考えることができるのではないかという気がする。
(たとえば、マルクス・ガブリエルの「神話」という概念により、ポストモダン的な「物語」とは違うことを考えることができるのではないか、とか。これも雑な思いつきだけど。)