●上手いとか下手とかいう言葉は意味(あるいは理由)が明示できない。それはただ「分かっている」と認定されている者だけが下す権利をもつ、理由を明示できない判断としてある。何が上手くて何が下手なのかということについて議論することはできず、ただ判定されるだけだ。少なくとも「下手だ」という判定には、その背後に判定する者とされる者との間の権威的な上下関係があることが前提とされる(あるいは、その判定によりそれが発生する)。
だから、できれば使わない方がよい言葉なのだけど、それでもやはり、上手いとか下手とか言うことによってしか表現できない実質のようなものがあるようにも思われる。たとえば、ボナールの絵を観ていると、下のようなことが言いたくなる。
「ボナールは、絵が下手ではないのに、まるで絵が下手な人が描くようにして絵を描くことができる。」
上のような文には、たんに表現上のレトリックではない、何か実質的な意味があるように思える。とはいえ、このような文によって表現される実質は、ここで「上手い」とか「下手だ」とか言う言葉に含まれている暗黙のニュアンス(というか、暗黙的実質)を共有できる人に対してしか伝わらないだろう。そして、そのようなニュアンスを共有する人であれば、わざわざこのような文によって表現しなくても、その感じを既に分かっているように思われる。ならばやはり、上のような文を書くことには意味がないのだろうか。
ただ、上のような文が一種の謎のようなものとして機能し、その謎が、人にある気づきを導くこともあるかもしれない。あるいは、そう書いておくことで、自分がそう感じたこと---ある思考の形---を忘れても後で思い出すことができる。そのような可能性があるのならば、上の文にまったく意味がないということはないだろう。
しかしそうだとしても、上手いとか下手だとか言う言葉には、あらかじめ権威的な上下関係がセットされているので、そのような語を発した途端に、権威的上下関係が暗黙裡に作動してしまうということは避けられない。この事実に無自覚に、上手いとか下手だとかいう言葉を使うことはできない。
(たんに事実として上手い、たんに事実として下手だ、ということはあると思う。だが、そのような事実は、「上手い」「下手だ」という言葉では表現できない。そう表現した途端に、それは「たんなる事実」ではなく、権威的な上下関係のにおいをまとってしまうから。)